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日中戦争終結後の[[1945年]](民国34年)10月30日、高樹勲は、[[邯鄲市|邯鄲]]で共産党への帰属を宣言する。これにより、共産党中央が認可した民主建国軍総司令に就任した。[[1949年]](民国35年)に、正式に共産党に入党している。[[中華人民共和国]]が成立した後には、河北人民政府副主席、[[河北省]]副省長、[[全国人民代表大会]]代表、国防委員会委員、[[中国人民政治協商会議]]全国委員会委員などを歴任した。 |
2020年9月15日 (火) 13:58時点における版
高樹勲 | |
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プロフィール | |
出生: | 1897年(清光緒23年) |
死去: |
1972年1月19日 中華人民共和国北京市 |
出身地: | 清直隷省天津府塩山県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 高樹勳 |
簡体字: | 高树勋 |
拼音: | Gāo Shùxūn |
ラテン字: | Kao Shu-hsün |
和名表記: | こう じゅくん |
発音転記: | ガオ シューシュン |
高 樹勲(こう じゅくん、1897年 - 1972年1月19日)は、中華民国、中華人民共和国の軍人。北京政府、国民軍、国民政府(国民革命軍)に属する。また、国共内戦においては、最も早く中国共産党に帰順した軍人の1人である。字は建侯。
人物
1915年(民国4年)から、北京政府の軍人としての経歴を開始し、馮玉祥率いる部隊で軍歴を重ねた。1926年(民国15年)、国民革命軍第2集団軍で師長に昇進している。1928年(民国17年)、軍を率いて青海に入り、この地を支配していた馬麒を降した。後に、青海省政府主席代理を一時務めた。
1930年(民国19年)の中原大戦で蔣介石軍と戦った。敗北後は蔣に降り、第26路軍第17師長に任命された。しかし、1931年(民国20年)の江西省における第2次中国共産党討伐の最中に、突然軍を離脱して天津に逃げ込んでいる。以後も共産党との秘密裏の連携をとっている。1933年(民国22年)、馮玉祥が察哈爾で組織したチャハル民衆抗日同盟軍に参加し、チャハル民衆抗日同盟軍第2挺進軍司令に任命された。
1937年(民国26年)に日中戦争(抗日戦争)が全面勃発すると、河北省保安処処長、河北遊撃総指揮をつとめた。1939年(民国28年)2月、察哈爾省政府委員をつとめた。1940年(民国29年)12月、日本への降伏を図った石友三を、高樹勲は蔣介石の秘密命令を受けて捕縛し、これを生埋めにより処刑した。1941年(民国30年)1月、第39集団軍副総司令に昇進し、同年5月、新編第8軍軍長を兼任した[1]。その後も、第39集団軍総司令、冀察戦区総司令、第11戦区副司令長官などを歴任した。
日中戦争終結後の1945年(民国34年)10月30日、高樹勲は、邯鄲で共産党への帰属を宣言する。これにより、共産党中央が認可した民主建国軍総司令に就任した。1949年(民国35年)に、正式に共産党に入党している。中華人民共和国が成立した後には、河北人民政府副主席、河北省副省長、全国人民代表大会代表、国防委員会委員、中国人民政治協商会議全国委員会委員などを歴任した。
脚注
- ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』による。沈慶生「石友三」によれば、前年12月の石友三処刑時点で、すでに高は新編第8軍軍長に就任している。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 沈慶生「石友三」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第1巻』中華書局、1987年。
- 魏明章「馬麒」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0。