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[[1915年]]([[民国紀元|民国]]4年)から、北京政府の軍人としての経歴を開始し、[[馮玉祥]]率いる部隊で軍歴を重ねた。[[1926年]](民国15年)、[[国民革命軍]]第2集団軍で師長に昇進している。[[1928年]](民国17年)、軍を率いて[[青海省 (中華民国)|青海]]に入り、この地を支配していた[[馬麒]]を降した。後に、青海省政府主席代理を一時務めた。
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[[1930年]](民国19年)の[[中原大戦]]で[[介石]]軍と戦った。敗北後はに降り、第26路軍第17師長に任命された。しかし、[[1931年]](民国20年)の[[江西省 (中華民国)|江西省]]における第2次[[中国共産党]]討伐の最中に、突然軍を離脱して[[天津市|天津]]に逃げ込んでいる。以後も共産党との秘密裏の連携をとっている。[[1933年]](民国22年)、馮玉祥が[[察哈爾省|察哈爾]]で組織した[[察哈爾民衆抗日同盟軍|チャハル民衆抗日同盟軍]]に参加し、チャハル民衆抗日同盟軍第2挺進軍司令に任命された。
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[[1937年]](民国26年)に[[日中戦争]](抗日戦争)が全面勃発すると、[[河北省 (中華民国)|河北省]]保安処処長、河北遊撃総指揮をつとめた。[[1939年]](民国28年)2月、察哈爾省政府委員をつとめた。[[1940年]](民国29年)12月、日本への降伏を図った[[石友三]]を、高樹勲は介石の秘密命令を受けて捕縛し、これを生埋めにより処刑した。[[1941年]](民国30年)1月、第39集団軍副総司令に昇進し、同年5月、新編第8軍軍長を兼任した<ref>徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』による。沈慶生「石友三」によれば、前年12月の石友三処刑時点で、すでに高は新編第8軍軍長に就任している。</ref>。その後も、第39集団軍総司令、冀察戦区総司令、第11戦区副司令長官などを歴任した。
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日中戦争終結後の[[1945年]](民国34年)10月30日、高樹勲は、[[邯鄲市|邯鄲]]で共産党への帰属を宣言する。これにより、共産党中央が認可した民主建国軍総司令に就任した。[[1949年]](民国35年)に、正式に共産党に入党している。[[中華人民共和国]]が成立した後には、河北人民政府副主席、[[河北省]]副省長、[[全国人民代表大会]]代表、国防委員会委員、[[中国人民政治協商会議]]全国委員会委員などを歴任した。
日中戦争終結後の[[1945年]](民国34年)10月30日、高樹勲は、[[邯鄲市|邯鄲]]で共産党への帰属を宣言する。これにより、共産党中央が認可した民主建国軍総司令に就任した。[[1949年]](民国35年)に、正式に共産党に入党している。[[中華人民共和国]]が成立した後には、河北人民政府副主席、[[河北省]]副省長、[[全国人民代表大会]]代表、国防委員会委員、[[中国人民政治協商会議]]全国委員会委員などを歴任した。

2020年9月15日 (火) 13:58時点における版

高樹勲
プロフィール
出生: 1897年光緒23年)
死去: 1972年1月19日
中華人民共和国北京市
出身地: 清の旗 直隷省天津府塩山県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 高樹勳
簡体字 高树勋
拼音 Gāo Shùxūn
ラテン字 Kao Shu-hsün
和名表記: こう じゅくん
発音転記: ガオ シューシュン
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高 樹勲(こう じゅくん、1897年 - 1972年1月19日)は、中華民国中華人民共和国の軍人。北京政府国民軍国民政府国民革命軍)に属する。また、国共内戦においては、最も早く中国共産党に帰順した軍人の1人である。建侯

人物

1915年民国4年)から、北京政府の軍人としての経歴を開始し、馮玉祥率いる部隊で軍歴を重ねた。1926年(民国15年)、国民革命軍第2集団軍で師長に昇進している。1928年(民国17年)、軍を率いて青海に入り、この地を支配していた馬麒を降した。後に、青海省政府主席代理を一時務めた。

1930年(民国19年)の中原大戦蔣介石軍と戦った。敗北後は蔣に降り、第26路軍第17師長に任命された。しかし、1931年(民国20年)の江西省における第2次中国共産党討伐の最中に、突然軍を離脱して天津に逃げ込んでいる。以後も共産党との秘密裏の連携をとっている。1933年(民国22年)、馮玉祥が察哈爾で組織したチャハル民衆抗日同盟軍に参加し、チャハル民衆抗日同盟軍第2挺進軍司令に任命された。

1937年(民国26年)に日中戦争(抗日戦争)が全面勃発すると、河北省保安処処長、河北遊撃総指揮をつとめた。1939年(民国28年)2月、察哈爾省政府委員をつとめた。1940年(民国29年)12月、日本への降伏を図った石友三を、高樹勲は蔣介石の秘密命令を受けて捕縛し、これを生埋めにより処刑した。1941年(民国30年)1月、第39集団軍副総司令に昇進し、同年5月、新編第8軍軍長を兼任した[1]。その後も、第39集団軍総司令、冀察戦区総司令、第11戦区副司令長官などを歴任した。

日中戦争終結後の1945年(民国34年)10月30日、高樹勲は、邯鄲で共産党への帰属を宣言する。これにより、共産党中央が認可した民主建国軍総司令に就任した。1949年(民国35年)に、正式に共産党に入党している。中華人民共和国が成立した後には、河北人民政府副主席、河北省副省長、全国人民代表大会代表、国防委員会委員、中国人民政治協商会議全国委員会委員などを歴任した。

1972年1月19日、北京で死去。享年76。

脚注

  1. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』による。沈慶生「石友三」によれば、前年12月の石友三処刑時点で、すでに高は新編第8軍軍長に就任している。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 沈慶生「石友三」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第1巻』中華書局、1987年。 
  • 魏明章「馬麒」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0