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[[1926年]](大正15年/昭和元年)、中国の[[蔣介石]]は国内の勢力統一、主に[[軍閥]]・[[張作霖]]の北京政府撲滅を目指して[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を開始した。その過程で、[[1927年]](昭和2年)[[3月24日]]に[[南京事件 (1927年)|南京事件]]、[[4月3日]]に[[漢口事件]]が起こって、日本人の生命財産が侵害された。同じく租界を攻撃された英国初め各国の公使は会議を開き、守備兵力の倍増が[[フランス]]行使によって提議された。この時日本の政権は[[憲政会]]の[[第1次若槻内閣]]であり、[[幣原喜重郎]]外務大臣は不干渉主義を保持していた([[幣原外交]])。幣原は列強間の共同歩調には否定的であり、[[芳沢謙吉]]日本公使は政府の方針に基づき共同歩調について明答を避けた。[[4月18日]]にはイギリス公使が2個師団増派を提議したが、日本側はいまだその必要がない旨を回答した<ref name="iboshihideru"/>。英国の[[オースティン・チェンバレン]]外相は「幣原男爵の楽観主義は救いがたい」と批判している。 |
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[[4月17日]]、若槻内閣は総辞職し、[[4月20日]]、[[立憲政友会]]の[[田中義一]]を首班とする[[田中義一内閣]]が誕生した(外相は田中が兼任)。南軍が山東省に接近すると、[[5月27日]]、政府は山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、陸海軍を派遣することを決定。田中は英国、米国、フランス、イタリアの代表を招いて出兵の主旨を説明したが、特に異見はなかった。[[5月28日]]、陸軍中央部は在[[満洲]]の[[歩兵第33旅団]]を[[青島市|青島]]に派遣待機させる旨の命令を下し、同旅団は[[5月30日]]に[[大連]]を出発し、翌日青島に入港、[[6月1日]]、上陸を完了した<ref name="iboshihideru"/>。 |
[[4月17日]]、若槻内閣は総辞職し、[[4月20日]]、[[立憲政友会]]の[[田中義一]]を首班とする[[田中義一内閣]]が誕生した(外相は田中が兼任)。南軍が山東省に接近すると、[[5月27日]]、政府は山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、陸海軍を派遣することを決定。田中は英国、米国、フランス、イタリアの代表を招いて出兵の主旨を説明したが、特に異見はなかった。[[5月28日]]、陸軍中央部は在[[満洲]]の[[歩兵第33旅団]]を[[青島市|青島]]に派遣待機させる旨の命令を下し、同旅団は[[5月30日]]に[[大連]]を出発し、翌日青島に入港、[[6月1日]]、上陸を完了した<ref name="iboshihideru"/>。 |
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[[7月3日]]、北軍の[[孫伝芳]]系の[[周蔭人]]の指揮下の軍が南軍に加担して、青島奪取を企図し、[[済南]]にあった北軍の[[張宗昌]]軍がこれを討伐しようとし、また、[[膠済鉄道]]と電線を切断されるなど、状況が悪化し、歩兵第33旅団の済南進出が不可能になる恐れが出てきたので、[[7月4日]]、[[藤田栄介]]済南総領事は[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に旅団の西進を申請し、[[7月5日]]の閣議でその必要が認められ、旅団は[[7月8日]]、済南に進出した。また7月8日の閣議で兵力増派の要請が承認され、在満[[第10師団 (日本軍)|第10師団]]の残余と[[第14師団 (日本軍)|第14師団]]の一部、内地より鉄道、電信各一個班が[[7月12日]]、青島に上陸した。しかし7月に入って[[武漢軍]]が |
[[7月3日]]、北軍の[[孫伝芳]]系の[[周蔭人]]の指揮下の軍が南軍に加担して、青島奪取を企図し、[[済南]]にあった北軍の[[張宗昌]]軍がこれを討伐しようとし、また、[[膠済鉄道]]と電線を切断されるなど、状況が悪化し、歩兵第33旅団の済南進出が不可能になる恐れが出てきたので、[[7月4日]]、[[藤田栄介]]済南総領事は[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に旅団の西進を申請し、[[7月5日]]の閣議でその必要が認められ、旅団は[[7月8日]]、済南に進出した。また7月8日の閣議で兵力増派の要請が承認され、在満[[第10師団 (日本軍)|第10師団]]の残余と[[第14師団 (日本軍)|第14師団]]の一部、内地より鉄道、電信各一個班が[[7月12日]]、青島に上陸した。しかし7月に入って[[武漢軍]]が蔣介石軍の側面を脅かしたため、蔣介石は[[7月10日]]に[[張宗昌]]に停戦を申し入れたが、北軍は応じず、7月末から8月始めにかけて、南軍は北軍と決戦して大敗した。蔣介石は[[武漢]]政府([[汪兆銘]]政権)との合流を優先させて[[8月13日]]に下野を宣言し、北伐は一時的に中断した。こうした状況から、日本政府は[[8月24日]]の閣議で撤兵を決定、[[9月8日]]までに撤兵を完了した<ref name="iboshihideru"/>。 |
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これらの出兵は日本人と日本権益の保護を目的としていて、中国民族主義の伸長を恐れる英米も無条件で歓迎した<ref>[http://www.c20.jp/1927/05sant1.html 山東出兵①/クリック20世紀]</ref>。 |
これらの出兵は日本人と日本権益の保護を目的としていて、中国民族主義の伸長を恐れる英米も無条件で歓迎した<ref>[http://www.c20.jp/1927/05sant1.html 山東出兵①/クリック20世紀]</ref>。 |
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==第二次・第三次出兵== |
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1928年(昭和3年)3月、[[ |
1928年(昭和3年)3月、[[蔣介石]]の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]軍は広州を出発し[[山東省 (中華民国)|山東省]]に接近、4月末に10万人の北伐軍が市内に突入したため、支那駐屯軍の天津部隊3個中隊(臨時済南派遣隊)と内地から第6師団の一部が派遣され、4月20日午後8時20分、臨時済南派遣隊が済南到着、4月26日午前2時半、第6師団の先行部隊の[[斎藤瀏]]少将指揮下の混成第11旅団が済南に到着し、6千人が山東省に展開した (第二次山東出兵)<ref name="isikawa48to50">[[石川禎浩]]『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史③ [岩波新書(新赤版)1251]』岩波書店、2010年10月20日 第1刷発行、ISBN 978-4-00-431251-2、48~50頁。</ref>。これは第一次出兵と異なり、条約的根拠のないもので中華民国内の[[反日]]世論が過熱した<ref name="isikawa48to50"/>。山省内で日本軍と北伐軍が対峙し、睨み合いながらも当初は両軍ともに規律が保たれていた。 |
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しかし、5月3日午前、北伐軍兵士による日本人家屋ならびに日本人への、集団的かつ計画的な、略奪・暴行・陵辱・殺人事件である、[[済南事件]]が発生した。5月5日、[[済南]]近くの鉄道駅で日本人9人の惨殺死体が日本軍によって発見された。 |
しかし、5月3日午前、北伐軍兵士による日本人家屋ならびに日本人への、集団的かつ計画的な、略奪・暴行・陵辱・殺人事件である、[[済南事件]]が発生した。5月5日、[[済南]]近くの鉄道駅で日本人9人の惨殺死体が日本軍によって発見された。 |
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5月4日午前、日本は緊急閣議を開いて、関東軍より歩兵1旅団、野砲兵1中隊、朝鮮より混成1旅団、飛行1中隊の増派を決定した。5月8日午後の閣議において、動員1師団の山東派遣および京津方面への兵力増派を承認し、5月9日、第3師団の山東派遣が命じられた (第三次山東出兵)。日本軍は、市内に2千人いる日本人保護のために済南城を攻撃し、5月10日から11日にかけての夜、北伐軍は城外へ脱出し北伐を再開した為、5月11日に済南城ならびに済南全域を占領した ([[済南事変]])<ref name="isikawa48to50"/>。 |
5月4日午前、日本は緊急閣議を開いて、関東軍より歩兵1旅団、野砲兵1中隊、朝鮮より混成1旅団、飛行1中隊の増派を決定した。5月8日午後の閣議において、動員1師団の山東派遣および京津方面への兵力増派を承認し、5月9日、第3師団の山東派遣が命じられた (第三次山東出兵)。日本軍は、市内に2千人いる日本人保護のために済南城を攻撃し、5月10日から11日にかけての夜、北伐軍は城外へ脱出し北伐を再開した為、5月11日に済南城ならびに済南全域を占領した ([[済南事変]])<ref name="isikawa48to50"/>。 |
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この事件により日本の世論は憤激、中国に対する感情が悪化した。年内中に |
この事件により日本の世論は憤激、中国に対する感情が悪化した。年内中に蔣介石は北伐を完成させぬまま終了し、1929年 (昭和4年)に山東全域から日本軍が撤退した。中華民国は反英運動から反日運動へと矛先を変え、同時に英米も日本に批判的になった<ref name="isikawa48to50"/>。 |
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当時の[[田中義一内閣]]は[[東方会議 (1927年)|東方会議]]を開いて、中国の内戦である北伐への不干渉を決めており、軍もこの決定に従って不用意に戦線を拡大することはなかった。つまり、当時は文民統制が実行されていたわけである。一方、[[ |
当時の[[田中義一内閣]]は[[東方会議 (1927年)|東方会議]]を開いて、中国の内戦である北伐への不干渉を決めており、軍もこの決定に従って不用意に戦線を拡大することはなかった。つまり、当時は文民統制が実行されていたわけである。一方、[[蔣介石]]は北伐戦争を妨害されたことを根にもったらしく、このときから日本との戦争を覚悟していたといわれる。 |
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[[関東州]]の日本軍は、当時日本の権益であった[[満州]]でも実力を誇った[[張作霖]]を爆殺する事件([[満州某重大事件]])を1928年6月4日に起こし{{要出典|date=2015年7月}}、露骨な満州政策を行い始めてもいた。これは日本政府が進めていた軍縮路線([[不戦条約]]宣布と[[ロンドン軍縮条約]])と相反するものであり、政府と[[関東軍]]を中心とした軍部の軋轢は次第に深まっていくことになる。 |
[[関東州]]の日本軍は、当時日本の権益であった[[満州]]でも実力を誇った[[張作霖]]を爆殺する事件([[満州某重大事件]])を1928年6月4日に起こし{{要出典|date=2015年7月}}、露骨な満州政策を行い始めてもいた。これは日本政府が進めていた軍縮路線([[不戦条約]]宣布と[[ロンドン軍縮条約]])と相反するものであり、政府と[[関東軍]]を中心とした軍部の軋轢は次第に深まっていくことになる。 |
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張作霖は満鉄併行線禁止条項に反して鉄道の建設を進め、[[満州善後条約]]で日本が清朝と結んでいた関東州の権益について、中華民国側と解釈の相違が露呈しはじめる。張学良は、条約にも父[[張作霖]]が関東軍と結んだ地域に関する契約にも違反しないと主張し、開発は進められた<ref>{{Cite book |author=臼井勝美 |year=1995 |title=張学良の昭和史最後の証言 |publisher=臼井勝美|isbn=978-4041954027 }}{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。この頃、ドイツの退役将校[[マックス・バウアー]]大佐が |
張作霖は満鉄併行線禁止条項に反して鉄道の建設を進め、[[満州善後条約]]で日本が清朝と結んでいた関東州の権益について、中華民国側と解釈の相違が露呈しはじめる。張学良は、条約にも父[[張作霖]]が関東軍と結んだ地域に関する契約にも違反しないと主張し、開発は進められた<ref>{{Cite book |author=臼井勝美 |year=1995 |title=張学良の昭和史最後の証言 |publisher=臼井勝美|isbn=978-4041954027 }}{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。この頃、ドイツの退役将校[[マックス・バウアー]]大佐が蔣介石の軍事顧問となり、軍事顧問団を形成した<ref>[[阿羅健一]]『日中戦争はドイツが仕組んだ―上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ』小学館、2008年、28頁</ref>。これ以降、ドイツの最新兵器が中華民国にもたらされる([[中独合作]]を参照)。1929年(昭和4年)2月 に[[李宗仁の乱]]が起きた。4月に山東全域から日本軍が撤退した。5月16日に馮玉祥軍が挙兵を宣言した。1929年6月、日本は国民政府を正式に承認する<ref name="isikawa55to58">[[石川禎浩]]『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史③ [岩波新書(新赤版)1251]』岩波書店、2010年10月20日 第1刷発行、ISBN 978-4-00-431251-2、55~58頁。</ref>。このときの協定文書で蔣介石は「支那」でなく「中華民国」呼称にするよう要求、日本も承諾した<ref name="isikawa55to58"/>。 |
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== 脚注 == |
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2020年9月15日 (火) 13:23時点における版
山東出兵(さんとうしゅっぺい)は、大日本帝国が1927年(昭和2年、民国16年)から1928年(昭和3年、民国17年)にかけて、3度にわたって行った中華民国山東省への派兵と、その地で起こった戦闘。
背景
大日本帝国は、第一次世界大戦でドイツ帝国の権益であった山東省と租借地の青島(膠州湾租借地)、植民地である南洋群島を攻略し、1915年(大正4年)に中華民国政府に対しドイツ権益を日本に譲り渡すことなどを記載した「21か条の要求」を提出し、5月25日、山東省に関する条約、山東省に於ける都市開放に関する交換公文、膠洲湾租借地に関する交換公文として承認された。
1918年(大正7年)9月には、満蒙四鉄道および膠済鉄道の延長線である済順鉄道(済南‐順徳)、高徐鉄道(高密‐徐州)の借款仮契約が締結されるとともに、山東問題処理に関する取極め[1]が交わされた[2]。日本は青島占領以来8年間、毎年国庫より約2000万円を支出し、産業の奨励と商工業の開発を行い、塩業、漁業、農業や製粉、製糸、精油、燐寸などの諸工業が勃興し、青島の繁栄と貿易の振興がもたらされた[3]。
1919年(大正8年)のパリ講和会議およびヴェルサイユ条約で、山東問題について、大日本帝国は対支21ヶ条要求を中華民国が受諾したと主張したが、中華民国は対支21ヶ条要求は強要されたもので、山東は自国に復帰すると主張した[4]。イギリスとフランスは前者を支持したが、アメリカ合衆国は後者に同情的だったため、大日本帝国は要求が拒否されるなら国際連盟規約に調印しないと迫ったため、アメリカ合衆国が譲歩した[4]。中華民国は、大日本帝国によるドイツ山東省権益の継承に反発し、ヴェルサイユ条約調印直前には、学生を中心にこれに反対する運動が盛んになり五・四運動となり、ヴェルサイユ条約の調印を拒否した。
状況を打開すべく、日本政府は中国と交渉の末、1922年(大正11年)の日中山東条約及び日中山東還付条約によって青島を含んだ山東省を中国に還付することとなったが、膠済鉄道は日本の借款鉄道とされ、同鉄道沿線の鉱山は日中合弁会社の経営となるなど、日本は山東省に一定の権益を確保した。これは軍縮会議以来、世界規模で進む軍縮の流れによるものでもある(シベリア出兵も本年終了)が、中国は21か条も廃棄するよう求め、日本はこれを拒否した。中国市民はこれに怒り、また日本は1900年の義和団の乱(北清事変)以来、北京議定書に基づいて、イギリス、アメリカ合衆国、ロシア帝国などの列強同様、天津はじめ中国各地に軍を駐留させていたが、これに対する反感も相まって、五四運動、五・三〇事件など全国規模で排日・侮日運動(反帝国主義運動)が巻き起こった。欧米列強に対する排外運動なども行われており、1927年1月に起きたイギリス租界奪取事件、また上海クーデターをはじめとした中国民衆による暴動事件が起きるなど危険な地帯にあった。
山東省における日本人居留民数は、昭和2年末の外務省調査によれば、総計約16940人に達し、そのうち青島付近に約13640人、済南に約2160人であり、投資総額は約1億5千万円に達していた[2]。
第一次出兵
1926年(大正15年/昭和元年)、中国の蔣介石は国内の勢力統一、主に軍閥・張作霖の北京政府撲滅を目指して北伐を開始した。その過程で、1927年(昭和2年)3月24日に南京事件、4月3日に漢口事件が起こって、日本人の生命財産が侵害された。同じく租界を攻撃された英国初め各国の公使は会議を開き、守備兵力の倍増がフランス行使によって提議された。この時日本の政権は憲政会の第1次若槻内閣であり、幣原喜重郎外務大臣は不干渉主義を保持していた(幣原外交)。幣原は列強間の共同歩調には否定的であり、芳沢謙吉日本公使は政府の方針に基づき共同歩調について明答を避けた。4月18日にはイギリス公使が2個師団増派を提議したが、日本側はいまだその必要がない旨を回答した[2]。英国のオースティン・チェンバレン外相は「幣原男爵の楽観主義は救いがたい」と批判している。
4月17日、若槻内閣は総辞職し、4月20日、立憲政友会の田中義一を首班とする田中義一内閣が誕生した(外相は田中が兼任)。南軍が山東省に接近すると、5月27日、政府は山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、陸海軍を派遣することを決定。田中は英国、米国、フランス、イタリアの代表を招いて出兵の主旨を説明したが、特に異見はなかった。5月28日、陸軍中央部は在満洲の歩兵第33旅団を青島に派遣待機させる旨の命令を下し、同旅団は5月30日に大連を出発し、翌日青島に入港、6月1日、上陸を完了した[2]。
7月3日、北軍の孫伝芳系の周蔭人の指揮下の軍が南軍に加担して、青島奪取を企図し、済南にあった北軍の張宗昌軍がこれを討伐しようとし、また、膠済鉄道と電線を切断されるなど、状況が悪化し、歩兵第33旅団の済南進出が不可能になる恐れが出てきたので、7月4日、藤田栄介済南総領事は外務大臣に旅団の西進を申請し、7月5日の閣議でその必要が認められ、旅団は7月8日、済南に進出した。また7月8日の閣議で兵力増派の要請が承認され、在満第10師団の残余と第14師団の一部、内地より鉄道、電信各一個班が7月12日、青島に上陸した。しかし7月に入って武漢軍が蔣介石軍の側面を脅かしたため、蔣介石は7月10日に張宗昌に停戦を申し入れたが、北軍は応じず、7月末から8月始めにかけて、南軍は北軍と決戦して大敗した。蔣介石は武漢政府(汪兆銘政権)との合流を優先させて8月13日に下野を宣言し、北伐は一時的に中断した。こうした状況から、日本政府は8月24日の閣議で撤兵を決定、9月8日までに撤兵を完了した[2]。
これらの出兵は日本人と日本権益の保護を目的としていて、中国民族主義の伸長を恐れる英米も無条件で歓迎した[5]。
第二次・第三次出兵
1928年(昭和3年)3月、蔣介石の北伐軍は広州を出発し山東省に接近、4月末に10万人の北伐軍が市内に突入したため、支那駐屯軍の天津部隊3個中隊(臨時済南派遣隊)と内地から第6師団の一部が派遣され、4月20日午後8時20分、臨時済南派遣隊が済南到着、4月26日午前2時半、第6師団の先行部隊の斎藤瀏少将指揮下の混成第11旅団が済南に到着し、6千人が山東省に展開した (第二次山東出兵)[6]。これは第一次出兵と異なり、条約的根拠のないもので中華民国内の反日世論が過熱した[6]。山省内で日本軍と北伐軍が対峙し、睨み合いながらも当初は両軍ともに規律が保たれていた。
しかし、5月3日午前、北伐軍兵士による日本人家屋ならびに日本人への、集団的かつ計画的な、略奪・暴行・陵辱・殺人事件である、済南事件が発生した。5月5日、済南近くの鉄道駅で日本人9人の惨殺死体が日本軍によって発見された。
5月4日午前、日本は緊急閣議を開いて、関東軍より歩兵1旅団、野砲兵1中隊、朝鮮より混成1旅団、飛行1中隊の増派を決定した。5月8日午後の閣議において、動員1師団の山東派遣および京津方面への兵力増派を承認し、5月9日、第3師団の山東派遣が命じられた (第三次山東出兵)。日本軍は、市内に2千人いる日本人保護のために済南城を攻撃し、5月10日から11日にかけての夜、北伐軍は城外へ脱出し北伐を再開した為、5月11日に済南城ならびに済南全域を占領した (済南事変)[6]。
この事件により日本の世論は憤激、中国に対する感情が悪化した。年内中に蔣介石は北伐を完成させぬまま終了し、1929年 (昭和4年)に山東全域から日本軍が撤退した。中華民国は反英運動から反日運動へと矛先を変え、同時に英米も日本に批判的になった[6]。
展開
当時の田中義一内閣は東方会議を開いて、中国の内戦である北伐への不干渉を決めており、軍もこの決定に従って不用意に戦線を拡大することはなかった。つまり、当時は文民統制が実行されていたわけである。一方、蔣介石は北伐戦争を妨害されたことを根にもったらしく、このときから日本との戦争を覚悟していたといわれる。
関東州の日本軍は、当時日本の権益であった満州でも実力を誇った張作霖を爆殺する事件(満州某重大事件)を1928年6月4日に起こし[要出典]、露骨な満州政策を行い始めてもいた。これは日本政府が進めていた軍縮路線(不戦条約宣布とロンドン軍縮条約)と相反するものであり、政府と関東軍を中心とした軍部の軋轢は次第に深まっていくことになる。
張作霖は満鉄併行線禁止条項に反して鉄道の建設を進め、満州善後条約で日本が清朝と結んでいた関東州の権益について、中華民国側と解釈の相違が露呈しはじめる。張学良は、条約にも父張作霖が関東軍と結んだ地域に関する契約にも違反しないと主張し、開発は進められた[7]。この頃、ドイツの退役将校マックス・バウアー大佐が蔣介石の軍事顧問となり、軍事顧問団を形成した[8]。これ以降、ドイツの最新兵器が中華民国にもたらされる(中独合作を参照)。1929年(昭和4年)2月 に李宗仁の乱が起きた。4月に山東全域から日本軍が撤退した。5月16日に馮玉祥軍が挙兵を宣言した。1929年6月、日本は国民政府を正式に承認する[9]。このときの協定文書で蔣介石は「支那」でなく「中華民国」呼称にするよう要求、日本も承諾した[9]。
脚注
注釈
出典
- ^ ①膠済鉄道沿線の日本軍隊は済南に一部隊を残留する外、すべてこれを青島に集中すること、②膠済鉄道警備は支那政府において巡警隊を組織してこれに当るべきこと、③膠済鉄道より右巡警隊の経費に充てんがため相当の金額を提供すること、④日本国人を右巡警隊本部および枢要駅ならびに巡警養成所に聘用すること、⑤膠済鉄道従業員中に支那国人を採用すること、⑥膠済鉄道はその所属確定の上は日支両国において合弁経営すること、⑦現下施行の民政はこれを撤廃すること
- ^ a b c d e 井星英『芸林』「昭和初年における山東出兵の問題点」
- ^ 『済南事件を中心として』
- ^ a b 江口圭一「1910-30年代の日本 アジア支配への途」『岩波講座 日本通史 第18巻 近代3』岩波書店、1994年7月28日、ISBN 4-00-010568-X、26~31頁。
- ^ 山東出兵①/クリック20世紀
- ^ a b c d 石川禎浩『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史③ [岩波新書(新赤版)1251]』岩波書店、2010年10月20日 第1刷発行、ISBN 978-4-00-431251-2、48~50頁。
- ^ 臼井勝美 (1995). 張学良の昭和史最後の証言. 臼井勝美. ISBN 978-4041954027[要ページ番号]
- ^ 阿羅健一『日中戦争はドイツが仕組んだ―上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ』小学館、2008年、28頁
- ^ a b 石川禎浩『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史③ [岩波新書(新赤版)1251]』岩波書店、2010年10月20日 第1刷発行、ISBN 978-4-00-431251-2、55~58頁。
参考文献
- 国立国会図書館「閣議決定等文献リスト及び本文」