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[[上海]]の聖約翰(セント・ジョン)大学を卒業。第二次世界大戦後に台湾へ渡り、[[霧峰林家]]と交友を深める。[[1947年]]に[[台湾省]]財政庁長となり、台湾での幣制改革に力を振るった。
[[上海]]の聖約翰(セント・ジョン)大学を卒業。第二次世界大戦後に台湾へ渡り、[[霧峰林家]]と交友を深める。[[1947年]]に[[台湾省]]財政庁長となり、台湾での幣制改革に力を振るった。


その後、経済部長・台湾省主席・財政部長を経て、[[1963年]]([[民国紀元|民国]]52年)12月、[[中華民国行政院 | 行政院]]院長に就任。[[1966年]]には[[中華民国副総統|副総統]]も兼任した。[[1975年]](民国64年)[[4月5日]]に[[介石]]が任期中に病死したため、[[中華民国憲法]]の規定に沿い総統に就任。[[1978年]](民国67年)[[5月20日]]の任期終了まで総統を務めたが、実際には介石の息子で行政院院長だった[[経国]]が党と政府の実権を掌握し、殆ど名目的な総統だった。
その後、経済部長・台湾省主席・財政部長を経て、[[1963年]]([[民国紀元|民国]]52年)12月、[[中華民国行政院 | 行政院]]院長に就任。[[1966年]]には[[中華民国副総統|副総統]]も兼任した。[[1975年]](民国64年)[[4月5日]]に[[介石]]が任期中に病死したため、[[中華民国憲法]]の規定に沿い総統に就任。[[1978年]](民国67年)[[5月20日]]の任期終了まで総統を務めたが、実際には介石の息子で行政院院長だった[[経国]]が党と政府の実権を掌握し、殆ど名目的な総統だった。


総統引退後は'''中華文化復興運動推行委員会会長'''や、'''国立故宮博物院管理委員会主任委員'''などの名誉職についた。1993年(民国82年)2月24日に[[台北市]]で病死。
総統引退後は'''中華文化復興運動推行委員会会長'''や、'''国立故宮博物院管理委員会主任委員'''などの名誉職についた。1993年(民国82年)2月24日に[[台北市]]で病死。
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2020年9月15日 (火) 13:11時点における版

厳家淦
嚴家淦

総統時代の厳家淦

任期 1975年4月5日1978年5月20日
副大統領 空位

任期 1963年12月16日1972年6月1日

任期 1966年5月20日1975年4月5日

出生 1905年10月23日
光緒31年)
清の旗 江蘇省蘇州府
死去 (1993-12-24) 1993年12月24日(88歳没)
民国82年12月24日)
中華民国の旗 中華民国台北市
政党 中国国民党
配偶者 劉期純
厳家淦
プロフィール
出生: 1905年10月23日
死去: 1993年12月24日
出身地: 江蘇省蘇州
職業: 政治家
各種表記
繁体字 嚴家淦
簡体字 严家淦
拼音 Yán Jiāgàn
注音二式 Yán Jiāgàn
和名表記: げん かかん
発音転記: イェン ジャアガン
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厳 家淦(げん かかん、1905年10月23日 - 1993年12月24日)は、国民党時代の中華民国台湾)の政治家静波外省人である。第2代中華民国総統(5期途中昇格)を務めた。

生涯

上海の聖約翰(セント・ジョン)大学を卒業。第二次世界大戦後に台湾へ渡り、霧峰林家と交友を深める。1947年台湾省財政庁長となり、台湾での幣制改革に力を振るった。

その後、経済部長・台湾省主席・財政部長を経て、1963年民国52年)12月、 行政院院長に就任。1966年には副総統も兼任した。1975年(民国64年)4月5日蔣介石が任期中に病死したため、中華民国憲法の規定に沿い総統に就任。1978年(民国67年)5月20日の任期終了まで総統を務めたが、実際には蔣介石の息子で行政院院長だった蔣経国が党と政府の実権を掌握し、殆ど名目的な総統だった。

総統引退後は中華文化復興運動推行委員会会長や、国立故宮博物院管理委員会主任委員などの名誉職についた。1993年(民国82年)2月24日に台北市で病死。

なお任期中にサウジアラビアへ公式訪問を行った。これは中華民国総統としては初めての海外公式訪問となる。

 中華民国の旗中華民国
先代
(初代)
退輔会主任
1954年 - 1956年
次代
蔣経国
先代
兪鴻鈞
美援会主任
1957年8月 - 1958年7月
次代
陳誠
先代
陳誠
行政院長
1963年 - 1972年
次代
蔣経国
先代
陳誠
経合会主任
1963年12月 - 1969年8月
次代
蔣経国
先代
陳誠
欠員期間あり
中華民国副総統
1966年 - 1975年
次代
謝東閔
欠員期間あり
先代
蔣介石
中華民国総統
1975年 - 1978年
次代
蔣経国