コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

兪鴻鈞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
兪 鴻鈞
Who's Who in China 5th ed. (1936)
プロフィール
出生: 1898年1月4日
死去: (1960-06-01) 1960年6月1日(62歳没)
中華民国の旗 中華民国 台湾省台北市
出身地: 清の旗 広東省広州府新会県
(現:江門市新会区
職業: ジャーナリスト・政治家
各種表記
繁体字 俞 鴻鈞
簡体字 俞 鸿钧
拼音 Yú Hóngjūn
ラテン字 Yü Hung-chün
和名表記: ゆ こうきん
発音転記: ユー ホンジュン
英語名 O. K. Yul
テンプレートを表示

兪 鴻鈞(ゆ こうきん、1898年1月4日光緒23年12月12日〉 - 1960年民国49年〉6月1日)は中華民国台湾)の政治家・ジャーナリスト。国民政府における財政部門の要人として知られ、中華民国政府の台湾への移転後には行政院長も務めた。

事績

[編集]

日中戦争までの活動

[編集]

1915年民国4年)、上海民生中学を卒業し、上海聖ヨハネ大学に進学した。在学中に校報『約翰声』総編輯を務めている。1919年(民国7年)に同大学を卒業後、助教となり、さらに中学部で教鞭を執った。まもなく、『大陸晩報』の英文記者となっている。

1927年(民国16年)、兪鴻鈞は外交部長陳友仁の英文秘書として起用される。しかし、まもなく辞職して上海に戻り、上海市政府で英文秘書となった。このとき、宣伝科科長も兼ね、『市政周刊』の主編を務めている。後に上海市政府の財政局局長代理、秘書長代理を歴任し、1932年(民国21年)4月、正式に秘書長に任ぜられた。1936年(民国25年)、上海市長代理となり、翌1937年(民国26年)7月、正式に市長に昇進している。

まもなく第二次上海事変が勃発し、兪鴻鈞は上海市長として当事者となり、日本との交渉も行った。上海から撤退した後は、中央信託局常務理事、駐香港弁理外交事務となる。1941年(民国30年)6月、財政部政務次長に任ぜられ、8月には外匯管理委員会常務委員も兼任した。1944年(民国33年)11月、財政部部長に昇進し、さらに中央銀行経済研究処処長も兼任している。翌1945年(民国34年)5月、中国国民党第6期中央執行委員に選出され、7月には中央銀行総裁も兼任した。

国共内戦期、台湾時代

[編集]

戦争終結後の同年12月、ソ連との間での東北三省における財政問題につき、兪鴻鈞が全権代表を務めた。翌年3月、国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD)の理事を務めている。同年6月、国民政府最高経済委員会委員となった。1948年(民国37年)5月、財政部長を辞任し、中央銀行総裁専任となる。まもなく幣制改革として金円券発行などに取り組んだが、結局は失敗に終わった。同年8月には、経済管制委員会上海区督導員も務めている。翌年1月、総裁から罷免され、中央銀行理事会常務理事に転じた。

国共内戦末期に兪鴻鈞は台湾へ逃れた。1950年(民国39年)8月、国民党中央改造委員会財務委員会主任委員に任ぜられる。1952年(民国41年)10月、国民党第7期中央委員に選出され、中央財務委員会主任委員となった。1953年(民国42年)4月、台湾省政府主席に任命され、さらに経済安定委員会を主管した。翌1954年(民国43年)6月、行政院長に昇進している。1957年(民国46年)10月、国民党第8期中央常務委員に選出された。1958年(民国47年)7月に行政院長を退いた後も、中央銀行総裁や交通銀行・農民銀行の董事長を兼任し、引き続き金融政策に従事した。

1960年(民国49年)6月1日、台北市にて病没。享年63。

参考文献

[編集]
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
中華民国の旗 中華民国
先代
呉鉄城
上海市長
1937年7月 - 1945年8月
日中戦争に伴う中断あり)
次代
銭大鈞
先代
孔祥熙
財政部長
1944年11月 - 1948年5月
次代
王雲五
中華民国の旗 中華民国
先代
呉国楨
台湾省政府主席
1953年4月 - 1954年6月
次代
厳家淦
先代
陳誠
行政院長
1954年6月 - 1958年7月
次代
陳誠