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'''スーザン・メアリー・イェイツ、通称リリー・イェイツ'''('''Susan Mary "Lily" Yeats''' {{IPAc-en|ˈ|j|eɪ|t|s}}、[[1866年]][[8月25日]] - [[1949年]][[1月5日]])は、[[アイルランド]]生まれの[[刺 |
'''スーザン・メアリー・イェイツ、通称リリー・イェイツ'''('''Susan Mary "Lily" Yeats''' {{IPAc-en|ˈ|j|eɪ|t|s}}、[[1866年]][[8月25日]] - [[1949年]][[1月5日]])は、[[アイルランド]]生まれの[[刺繡|刺繡作家]]で、[[:en:Celtic Revival|ケルト復興運動]]{{en icon}}に出版者として関与した。クアラ工業の刺繡部門を[[1908年]]に設立、[[1931年]]の解散に至るまで経営する。著名な刺繡画の作品を残した<!--<ref name="Allen">-->{{sfn|Allen|2009}}。 |
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== 幼少期と教育 == |
== 幼少期と教育 == |
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[[1878年]]、一家が[[チジック]]に引っ越しベドフォードパークの大きな家で暮らし始めたのを契機に、イェイツは短いあいだノッティングヒルの学校に通う。[[1881年]]、妹のエリザベスと共にダブリンの{{仮リンク|ハウス (アイルランド)|en|Howth|label=ハウス}}に移ったイェイツは[[1883年]]にダブリン・メトロポリタン美術学校に入学。姉妹でダブリン王立協会にも在籍している{{sfn|Allen|2009}}。 |
[[1878年]]、一家が[[チジック]]に引っ越しベドフォードパークの大きな家で暮らし始めたのを契機に、イェイツは短いあいだノッティングヒルの学校に通う。[[1881年]]、妹のエリザベスと共にダブリンの{{仮リンク|ハウス (アイルランド)|en|Howth|label=ハウス}}に移ったイェイツは[[1883年]]にダブリン・メトロポリタン美術学校に入学。姉妹でダブリン王立協会にも在籍している{{sfn|Allen|2009}}。 |
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[[ファイル:Lily_yeats.jpg|左|サムネイル| 夜の風景 ]] |
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イェイツ家がサウス・ケンジントン ([[:en:South Kensington|en]]) のアードリー・クレセントに転居して間もなく[[1887年]]にイェイツは病いにふせり、親元に送り返されるはずだったところを[[ハダースフィールド]]の叔母の家で病弱な母をまじえた暮らしが始まる。しかし1年後、結局はベドフォードパーク (ブレナムロード3番地) の家族の元に戻っている。一家はこの時期からしばしば[[ハマースミス]]のケルムスコット・ハウス ([[:en:Kelmscott House|en]]) へ[[ウィリアム・モリス]]を訪ねている。手工芸運動を展開するモリスは家計がひっ迫するイェイツ家を見かね、自らが提唱する様式の刺 |
イェイツ家がサウス・ケンジントン ([[:en:South Kensington|en]]) のアードリー・クレセントに転居して間もなく[[1887年]]にイェイツは病いにふせり、親元に送り返されるはずだったところを[[ハダースフィールド]]の叔母の家で病弱な母をまじえた暮らしが始まる。しかし1年後、結局はベドフォードパーク (ブレナムロード3番地) の家族の元に戻っている。一家はこの時期からしばしば[[ハマースミス]]のケルムスコット・ハウス ([[:en:Kelmscott House|en]]) へ[[ウィリアム・モリス]]を訪ねている。手工芸運動を展開するモリスは家計がひっ迫するイェイツ家を見かね、自らが提唱する様式の刺繡を習わないかとリリーに声をかけることにする。後世にアート刺繡と呼ばれる様式である。[[1888年]][[12月10日]]にモリス商会(Morris&Co.)に就職、1週目の給金は10[[シリング]]であり<!--<ref name="Faulkner">-->{{sfn|Faulkner|1995}}、半年を待たず、[[1889年]][[3月]]には社内で刺繡の指導役に昇格している<!--<ref name="Sheehy1">-->{{sfn|Sheehy|1980|page=158}}。刺繡部門の経営者はモリスの娘メイ([[1862年]][[3月25日]] - [[1938年]][[10月17日]])で、弟子入りした形のイェイツは[[1894年]][[4月]]に病気理由で退職するまで勤め続けた。 |
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会社を辞めて南フランスの[[イエール (ヴァール県)|イエール]]に滞在し、しばらく家庭教師として働いた間に[[腸チフス]]を発症すると、1896年[[12月]]にロンドンに帰ってくる。イェイツは親しくなった作家のスーザン・L・ミッチェルを1897年後半からロンドンの自宅に下宿させた{{sfn|Allen|2009}}。 |
会社を辞めて南フランスの[[イエール (ヴァール県)|イエール]]に滞在し、しばらく家庭教師として働いた間に[[腸チフス]]を発症すると、1896年[[12月]]にロンドンに帰ってくる。イェイツは親しくなった作家のスーザン・L・ミッチェルを1897年後半からロンドンの自宅に下宿させた{{sfn|Allen|2009}}。 |
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[[1900年]]に[[ダブリン]]に戻ったのちのイェイツは、妹のエリザベスとエヴリン・グリーソンとともにダン・エマー工房を組み、自らは縫製部門の責任者になる。 |
[[1900年]]に[[ダブリン]]に戻ったのちのイェイツは、妹のエリザベスとエヴリン・グリーソンとともにダン・エマー工房を組み、自らは縫製部門の責任者になる。 |
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それまでの経緯として、メイ・モリスの下で勤めた合計6年は雇い主との関係が険悪になるばかりの年月でもあり、理由を付けて退職する原因にもなった{{efn|スクラップブックの書き込みに女雇い主を「[[ゴーゴン]]」呼ばわりしている<!--<ref name="Faulkner">-->{{sfn|Faulkner|1995}}。}}。[[フランス]]に渡るが[[1895年]]に[[腸チフス]]にかかってしまい、健康の不安を抱えたまま5年ほどを過ごすことになる{{sfn|Brown|2001|page=55}}。母親をなくした[[1900年]]<!--<ref name="CP">-->{{sfn|History of the Cuala Press|2009}}、イェイツ姉妹は親しかったエヴリン・グリーソンと共にアイルランドに戻っていく。3人はその2年後の[[1902年]]にダブリン近郊に手工芸の工房を開くと[[クー・フーリン|ダン・エマー]] (エマーの砦)と名付ける。アイルランドの伝説的な英雄[[クー・フーリン]]の妻の名前を取ったのである。ダン・エマー工房は刺 |
それまでの経緯として、メイ・モリスの下で勤めた合計6年は雇い主との関係が険悪になるばかりの年月でもあり、理由を付けて退職する原因にもなった{{efn|スクラップブックの書き込みに女雇い主を「[[ゴーゴン]]」呼ばわりしている<!--<ref name="Faulkner">-->{{sfn|Faulkner|1995}}。}}。[[フランス]]に渡るが[[1895年]]に[[腸チフス]]にかかってしまい、健康の不安を抱えたまま5年ほどを過ごすことになる{{sfn|Brown|2001|page=55}}。母親をなくした[[1900年]]<!--<ref name="CP">-->{{sfn|History of the Cuala Press|2009}}、イェイツ姉妹は親しかったエヴリン・グリーソンと共にアイルランドに戻っていく。3人はその2年後の[[1902年]]にダブリン近郊に手工芸の工房を開くと[[クー・フーリン|ダン・エマー]] (エマーの砦)と名付ける。アイルランドの伝説的な英雄[[クー・フーリン]]の妻の名前を取ったのである。ダン・エマー工房は刺繡のほか[[印刷]]や敷き物の[[絨毯|ラグ]]、あるいは[[タペストリー]]作りにしぼり、おりしも成長めざましいアイルランドの[[アーツ・アンド・クラフツ運動]]で注目の[[ギルド]]になる。地元の若い女性を雇うと、工房の主力製品の製造に加えて、絵画やデッサン、料理や縫製、[[アイルランド語]]の授業を受けさせた<!--<ref name="Sheehy1">-->{{sfn|Sheehy|1980|page=158}}。工房でリリー・イェイツの担当は刺繡部門の経営で、教会の内装用のテキスタイルや家庭向けの製品作りにいそしむ<!--<ref name="Sheehy2">-->{{sfn|Sheehy|1980|page=161}}{{sfn|Brown|2001|page=149}}。 |
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[[1904年]]に工房をダン・エマー・ギルド(責任者グリーソン)とダン・エマー工業の2部門に編成し直して経営はイェイツ姉妹が行い、[[1908年]]には分社を果たす。ダン・エマーの名称はグリーソンに渡し、イェイツ姉妹はダブリン近郊のチャーチタウンにクアラ工業名義で新会社を設立、小規模印刷のクアラプレス、刺 |
[[1904年]]に工房をダン・エマー・ギルド(責任者グリーソン)とダン・エマー工業の2部門に編成し直して経営はイェイツ姉妹が行い、[[1908年]]には分社を果たす。ダン・エマーの名称はグリーソンに渡し、イェイツ姉妹はダブリン近郊のチャーチタウンにクアラ工業名義で新会社を設立、小規模印刷のクアラプレス、刺繡工房を運営した。詩人のイェイツの妻ジョージ(実名バーサ・ジョージナ)もリリーたちの会社を手伝い、刺繡部門で衣料品と[[リネン]]類の生産に当たった<!--<ref name="CP">-->{{sfn|History of the Cuala Press|2009}}<!--<ref name="Sheehy2">-->{{sfn|Sheehy|1980|page=161}}。 |
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仲違いはあったものの、リリーとエリザベスのイェイツ姉妹は成人してからずっと生活を共にしている。[[1923年]]、ロンドンで休暇を過ごしていたリリーが倒れ重篤になると、原因は[[結核]]だろうとみなされ、7月に男きょうだいの手配でロンドンの[[老人ホーム]]にベッドを確保し、リリーを翌年の4月まで預けることにした<!--<ref name="Foster">-->{{sfn|Foster|2005|page=241}}{{sfn|Saddlemyer |2004|page=328}}。病状は快復しクアラに戻ることができたものの、刺 |
仲違いはあったものの、リリーとエリザベスのイェイツ姉妹は成人してからずっと生活を共にしている。[[1923年]]、ロンドンで休暇を過ごしていたリリーが倒れ重篤になると、原因は[[結核]]だろうとみなされ、7月に男きょうだいの手配でロンドンの[[老人ホーム]]にベッドを確保し、リリーを翌年の4月まで預けることにした<!--<ref name="Foster">-->{{sfn|Foster|2005|page=241}}{{sfn|Saddlemyer |2004|page=328}}。病状は快復しクアラに戻ることができたものの、刺繡部門はすでに傾き始めており、そのなか[[1931年]]に再びリリーが体調を崩してしまう{{efn|1929年に[[甲状腺]]の奇形という正しい診断を受けていた{{sfn|Brown|2001|page=336}}。}}。クアラ工業の刺繡部門解散の決定が下された当時、イェイツ本人が書き残したものが伝わっている<!--<ref name="AS">-->{{sfn|Saddlemyer|2004|page=477}}。 |
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病気をしたというのに、どうして仕事など始めてしまったのだろう。8年間、どれほどつらかったことか、毎年、会社が悪くなってとうとう行き詰ってしまった。</blockquote> |
病気をしたというのに、どうして仕事など始めてしまったのだろう。8年間、どれほどつらかったことか、毎年、会社が悪くなってとうとう行き詰ってしまった。</blockquote> |
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会社の部門をたたんだのちもリリー・イェイツは刺 |
会社の部門をたたんだのちもリリー・イェイツは刺繡画の販売を続け<!--<ref name="AS"/>-->{{sfn|Saddlemyer|2004|page=477}}、1949年に亡くなる{{sfn|Pyle|1989|page=168}}{{sfn|Trent University Archives-Susan Yeats|2006}}。 |
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== 参考文献・資料 == |
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* Murphy, William M. "Family Secrets: Wiliam Butler Yeats and His Relatives." Syracuse University Press, 1995. 詩人イェイツと家族の伝記 |
* Murphy, William M. "Family Secrets: Wiliam Butler Yeats and His Relatives." Syracuse University Press, 1995. 詩人イェイツと家族の伝記 |
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=== リリー・イェイツの刺 |
=== リリー・イェイツの刺繡画 === |
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* 「[http://www.artnet.de/artists/lotdetailpage.aspx?lot_id=275B7C4CE96977F572D6CE0946C97851 石壁に2羽のカササギ]」(1934年頃・www.artnet.de より、以下同) |
* 「[http://www.artnet.de/artists/lotdetailpage.aspx?lot_id=275B7C4CE96977F572D6CE0946C97851 石壁に2羽のカササギ]」(1934年頃・www.artnet.de より、以下同) |
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* 「[http://www.artnet.de/artists/lotdetailpage.aspx?lot_id=FC7B5E579443CAF5109181C3E20C4DBC 芍薬と梅] 」角形クッション(刺 |
* 「[http://www.artnet.de/artists/lotdetailpage.aspx?lot_id=FC7B5E579443CAF5109181C3E20C4DBC 芍薬と梅] 」角形クッション(刺繡入り) |
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* 「[http://www.artnet.de/artists/lotdetailpage.aspx?lot_id=0C4B4CFF0E9EF96A7558EBF5E463BDB5 コートを羽織ったマリア像]」 |
* 「[http://www.artnet.de/artists/lotdetailpage.aspx?lot_id=0C4B4CFF0E9EF96A7558EBF5E463BDB5 コートを羽織ったマリア像]」 |
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2020年9月15日 (火) 12:57時点における版
リリー・イェイツ | |
---|---|
Susan Mary Yeats | |
肖像画(ベドフォードパークにて)[注釈 1] | |
生誕 |
1866年8月25日 アイルランド、スライゴ県イニシュクローン(en) |
死没 |
1949年1月5日 (82歳没) アイルランド、ダブリン |
国籍 | アイルランド |
教育 | ダブリン市立美術学校(のちの国立美術デザイン大学) |
職業 | 刺繡作家 |
親戚 |
兄ウィリアム・バトラー・イェイツ (1865年6月13日 – 1939年1月28日) 妹エリザベス・コルベット・〈ロリー〉・イェイツ (en) (1868年3月11日 – 1940年1月16日) 末弟ジャック・バドラー・イェイツ (en)(1871年8月29日 – 1957年3月28日) [注釈 2] |
スーザン・メアリー・イェイツ、通称リリー・イェイツ(Susan Mary "Lily" Yeats [ˈjeɪts]、1866年8月25日 - 1949年1月5日)は、アイルランド生まれの刺繡作家で、ケルト復興運動 に出版者として関与した。クアラ工業の刺繡部門を1908年に設立、1931年の解散に至るまで経営する。著名な刺繡画の作品を残した[1]。
幼少期と教育
アイルランドのスライゴ県エニスクローンに生まれる。父ジョン・バトラー・イェイツ、母スーザン・イェイツ(旧姓Pollexfen)との間に、長じて詩人になる年子の兄ウィリアム・バトラー、2歳年下の〈ロリー〉・エリザベス、5歳下の末弟ジャックがあった。幼少期は病弱で5歳から8歳(1872年7月 - 1874年11月)まで母方の祖父に預けられ、スライゴーのマービルで転地療養をしている。その後、ロンドンのウェスト・ケンジントン、エディス・ヴィラ14番地に暮らす親きょうだいに合流した。イェイツ家の子供たちには住み込みの家庭教師マーサ・ジョウィットがつき、1876年まで家庭学習を受けさせられる。
1878年、一家がチジックに引っ越しベドフォードパークの大きな家で暮らし始めたのを契機に、イェイツは短いあいだノッティングヒルの学校に通う。1881年、妹のエリザベスと共にダブリンのハウスに移ったイェイツは1883年にダブリン・メトロポリタン美術学校に入学。姉妹でダブリン王立協会にも在籍している[1]。
イェイツ家がサウス・ケンジントン (en) のアードリー・クレセントに転居して間もなく1887年にイェイツは病いにふせり、親元に送り返されるはずだったところをハダースフィールドの叔母の家で病弱な母をまじえた暮らしが始まる。しかし1年後、結局はベドフォードパーク (ブレナムロード3番地) の家族の元に戻っている。一家はこの時期からしばしばハマースミスのケルムスコット・ハウス (en) へウィリアム・モリスを訪ねている。手工芸運動を展開するモリスは家計がひっ迫するイェイツ家を見かね、自らが提唱する様式の刺繡を習わないかとリリーに声をかけることにする。後世にアート刺繡と呼ばれる様式である。1888年12月10日にモリス商会(Morris&Co.)に就職、1週目の給金は10シリングであり[2]、半年を待たず、1889年3月には社内で刺繡の指導役に昇格している[3]。刺繡部門の経営者はモリスの娘メイ(1862年3月25日 - 1938年10月17日)で、弟子入りした形のイェイツは1894年4月に病気理由で退職するまで勤め続けた。
会社を辞めて南フランスのイエールに滞在し、しばらく家庭教師として働いた間に腸チフスを発症すると、1896年12月にロンドンに帰ってくる。イェイツは親しくなった作家のスーザン・L・ミッチェルを1897年後半からロンドンの自宅に下宿させた[1]。
職歴
1900年にダブリンに戻ったのちのイェイツは、妹のエリザベスとエヴリン・グリーソンとともにダン・エマー工房を組み、自らは縫製部門の責任者になる。
それまでの経緯として、メイ・モリスの下で勤めた合計6年は雇い主との関係が険悪になるばかりの年月でもあり、理由を付けて退職する原因にもなった[注釈 3]。フランスに渡るが1895年に腸チフスにかかってしまい、健康の不安を抱えたまま5年ほどを過ごすことになる[4]。母親をなくした1900年[5]、イェイツ姉妹は親しかったエヴリン・グリーソンと共にアイルランドに戻っていく。3人はその2年後の1902年にダブリン近郊に手工芸の工房を開くとダン・エマー (エマーの砦)と名付ける。アイルランドの伝説的な英雄クー・フーリンの妻の名前を取ったのである。ダン・エマー工房は刺繡のほか印刷や敷き物のラグ、あるいはタペストリー作りにしぼり、おりしも成長めざましいアイルランドのアーツ・アンド・クラフツ運動で注目のギルドになる。地元の若い女性を雇うと、工房の主力製品の製造に加えて、絵画やデッサン、料理や縫製、アイルランド語の授業を受けさせた[3]。工房でリリー・イェイツの担当は刺繡部門の経営で、教会の内装用のテキスタイルや家庭向けの製品作りにいそしむ[6][7]。
1904年に工房をダン・エマー・ギルド(責任者グリーソン)とダン・エマー工業の2部門に編成し直して経営はイェイツ姉妹が行い、1908年には分社を果たす。ダン・エマーの名称はグリーソンに渡し、イェイツ姉妹はダブリン近郊のチャーチタウンにクアラ工業名義で新会社を設立、小規模印刷のクアラプレス、刺繡工房を運営した。詩人のイェイツの妻ジョージ(実名バーサ・ジョージナ)もリリーたちの会社を手伝い、刺繡部門で衣料品とリネン類の生産に当たった[5][6]。
仲違いはあったものの、リリーとエリザベスのイェイツ姉妹は成人してからずっと生活を共にしている。1923年、ロンドンで休暇を過ごしていたリリーが倒れ重篤になると、原因は結核だろうとみなされ、7月に男きょうだいの手配でロンドンの老人ホームにベッドを確保し、リリーを翌年の4月まで預けることにした[8][9]。病状は快復しクアラに戻ることができたものの、刺繡部門はすでに傾き始めており、そのなか1931年に再びリリーが体調を崩してしまう[注釈 4]。クアラ工業の刺繡部門解散の決定が下された当時、イェイツ本人が書き残したものが伝わっている[11]。
病気をしたというのに、どうして仕事など始めてしまったのだろう。8年間、どれほどつらかったことか、毎年、会社が悪くなってとうとう行き詰ってしまった。
会社の部門をたたんだのちもリリー・イェイツは刺繡画の販売を続け[11]、1949年に亡くなる[12][13]。
参考文献・資料
- Allen, Nicholas (2009). “Yeats, Susan Mary (‘Lily’)”. In McGuire, James; Quinn, James. Dictionary of Irish Biography. Cambridge: Cambridge University Press
- “History of the Cuala Press”. Boston College Libraries Newsletter. ボストンカレッジ図書館 (2008年秋学期). 2009年7月26日閲覧。
- “Susan Yeats”. Trent University. 2009年7月26日閲覧。 スーザンほかイェイツ家の書簡集、トレント大学収蔵 (アーカイブ)
- Brown, Terence (2001). The Life of W. B. Yeats. Wiley-Blackwell. ISBN 0-631-22851-9
- Faulkner, Peter (November 1995). “Dark Days at Hammersmith: Lily Yeats and the Morrises”. Journal of William Morris Studies (William Morris Society) 11.3 (Autumn 1995): 22–25 26 July 2009閲覧。.
- Foster, R.F. (2005). W. B. Yeats: A Life Volume II: The Arch-Poet 1915-1939. Oxford University Press. ISBN 0-19-280609-2
- Pyle, Hilary (1989). Jack B. Yeats: A Biography. Rowman & Littlefield. ISBN 0-389-20892-2 28 July 2009閲覧。
- Saddlemyer, Ann (2004). Becoming George: The Life of Mrs W. B. Yeats. Oxford University Press. ISBN 0-19-926921-1 26 July 2009閲覧。
- Sheehy, John (1980). The Rediscovery of Ireland's Past: The Celtic Revival 1830–1930. Thames and Hudson. ISBN 0-500-01221-0
脚注
注釈
出典
- ^ a b c Allen 2009.
- ^ a b Faulkner 1995.
- ^ a b Sheehy 1980, p. 158.
- ^ Brown 2001, p. 55.
- ^ a b History of the Cuala Press 2009.
- ^ a b Sheehy 1980, p. 161.
- ^ Brown 2001, p. 149.
- ^ Foster 2005, p. 241.
- ^ Saddlemyer 2004, p. 328.
- ^ Brown 2001, p. 336.
- ^ a b Saddlemyer 2004, p. 477.
- ^ Pyle 1989, p. 168.
- ^ Trent University Archives-Susan Yeats 2006.
関連項目
- アーツ・アンド・クラフツ運動
- クアラ出版 兄はじめアイルランド文学復興運動(en)の作家の本を出版。女性のみで運営し、新作を積極的に出版。
- ノルマン人のアイルランド侵攻 出版社名の由来、クアラの地(ダブリン南部)が敵の手に落ちた一連の戦い。ケルト復興運動のキーワード。
関連資料
代表執筆者の姓のABC順。
- 日下隆平、Yeats, William Butler「翻訳 W. B. イェイツ:『幼年期と青春期の回想』VI~XIII」『英米評論』第16号、堺 : 桃山学院大学総合研究所、2001年12月、197-218頁。ISSN 0917-0200。
- Hardwick, Joan. The Yeats Sisters : A Biography of Susan and Elizabeth Yeats. (HarperCollins. Pandora, 1996). ISBN 0-04-440924-9ISBN 0-04-440924-9. イェイツ姉妹の伝記
- Murphy, William M. "Family Secrets: Wiliam Butler Yeats and His Relatives." Syracuse University Press, 1995. 詩人イェイツと家族の伝記
リリー・イェイツの刺繡画
- 「石壁に2羽のカササギ」(1934年頃・www.artnet.de より、以下同)
- 「芍薬と梅 」角形クッション(刺繡入り)
- 「コートを羽織ったマリア像」
外部リンク
- ダン・エマー工房とクアラ出版の作ったもの アイルランド国立図書館特別展
- イェイツ協会スライゴ支部
- イェイツ家関連書簡集 ボストンカレッジ附属ジョン・J・バーンズ図書館収蔵