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同年、劉永が戦死すると、張歩は劉永の子の[[劉紆]]を天子として擁立し、自身は定漢公と号して、百官を置く計画を立てた。しかし王閎は、劉永が更始帝を奉じたために山東が帰順したが、その子を尊んで天子とすれば衆民は疑念を持つかも知れず、また斉の民は謀り多い(故にますます疑うでしょう)、と諌めたため、張歩はこれを取りやめている<ref>ただし、更始政権滅亡前後には劉永もすでに天子を称しており、本来は劉紆がそれを後継するのは当然のはずである。王閎は、劉紆には劉永ほどの人望はなく求心力が望めないと判断したのであろう。</ref>。 |
同年、劉永が戦死すると、張歩は劉永の子の[[劉紆]]を天子として擁立し、自身は定漢公と号して、百官を置く計画を立てた。しかし王閎は、劉永が更始帝を奉じたために山東が帰順したが、その子を尊んで天子とすれば衆民は疑念を持つかも知れず、また斉の民は謀り多い(故にますます疑うでしょう)、と諌めたため、張歩はこれを取りやめている<ref>ただし、更始政権滅亡前後には劉永もすでに天子を称しており、本来は劉紆がそれを後継するのは当然のはずである。王閎は、劉紆には劉永ほどの人望はなく求心力が望めないと判断したのであろう。</ref>。 |
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建武5年([[29年]])10月、後漢の建威大将軍[[ |
建武5年([[29年]])10月、後漢の建威大将軍[[耿弇]]が張歩の討伐に向かい、[[歴城区|歴城]]で張歩の部将の費邑を斬り、[[臨淄区|臨菑]]へ進軍してくる。この時張歩は、盟友の[[蘇茂]]の援軍を仰いでいたが、耿弇軍は寡兵にして遠来のため疲労していると侮り、単独で先制攻撃を仕掛けた。結果は、惨敗に終わり、張歩は本拠地の劇へ敗走したが、光武帝自ら率いる軍が進撃してきたため、さらに劇も放棄し、[[濰城区|平寿]]へ逃げ込む。張歩の余りの不様な敗戦に、蘇茂は、何で私の軍が到着するのを待てなかったのか、と責め、張歩も恥じ入ってしまった。 |
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平寿に立て篭もった張歩と蘇茂に対し、光武帝は使者を派遣して、相方を斬って降れば列侯に封じると告げた。すると、張歩は蘇茂を殺害し、その首級を差し出して降伏する。光武帝は約束どおり張歩を安丘侯に封じ、その一族と共に[[洛陽]]へ移住させた。 |
平寿に立て篭もった張歩と蘇茂に対し、光武帝は使者を派遣して、相方を斬って降れば列侯に封じると告げた。すると、張歩は蘇茂を殺害し、その首級を差し出して降伏する。光武帝は約束どおり張歩を安丘侯に封じ、その一族と共に[[洛陽]]へ移住させた。 |
2020年9月14日 (月) 23:14時点における版
張 歩(ちょう ほ、? - 32年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将。字は文公。徐州琅邪郡不其県の人。弟は張弘・張藍・張寿。新代から後漢時代初期にかけて、中国東部に割拠した群雄の一人である。
事跡
姓名 | 張歩 |
---|---|
時代 | 新代 - 後漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 32年(建武8年) |
字・別号 | 文公(字) |
本貫・出身地等 | 徐州琅邪郡不其県 |
職官 | 五威将軍〔自称〕
→輔漢大将軍〔劉永〕 |
爵位・号等 | 忠節侯〔劉永〕→斉王〔劉永〕
→安丘侯〔後漢〕 |
陣営・所属等 | 〔独立勢力〕→劉永→劉紆→光武帝 |
家族・一族 | 弟:張弘、張藍、張寿 |
斉に割拠
劉秀らが挙兵した地皇3年(22年)頃、張歩も数千の兵を率いて挙兵し、五威将軍を自称して琅邪郡に割拠した。更始1年(23年)頃に、更始帝(劉玄)は、部将の王閎を琅邪太守に任命して派遣したが、張歩はその赴任を拒否し、激しく争うようになる。
間もなく、梁の劉永が更始帝から自立するようになると、劉永は張歩を輔漢大将軍に任命し、忠節侯に封じて、さらに青州・徐州の2州の監督権まで認め、これを味方に取り込もうとした。張歩は喜んでこれを受諾し、劇の地に駐屯して、弟の張弘を衛将軍、次の弟の張藍を玄武大将軍、さらに次の弟の張寿を高密太守に任命する。そして張歩は、泰山・東莱・城陽・膠東・北海・済南・斉の諸郡を攻略して、支配下に収めた。
また、敵対していた王閎も、ここで張歩と和解した。張歩は王閎に琅邪郡の事務を委ね、実質幕僚として遇している。
敗戦と投降
建武2年(26年)、光武帝(劉秀)は太中大夫伏隆を青州・徐州に遣わして張歩を帰属させる。
建武3年(27年)、光武帝は既に帰属している張歩に対して、その功によって光禄大夫に昇進させた伏隆を再び派遣し、張歩を東莱太守に任命した。一方劉永は、張歩を斉王に封じようとし、張歩は漢側にも譲歩させて王爵を得ようとした。伏隆は高祖劉邦の約を盾にこれを拒み、なおも自陣営に引き込もうとする張歩を、また拒み、張歩は伏隆を殺害している。結局、張歩は斉王に封じられることで劉永に帰属した。
同年、劉永が戦死すると、張歩は劉永の子の劉紆を天子として擁立し、自身は定漢公と号して、百官を置く計画を立てた。しかし王閎は、劉永が更始帝を奉じたために山東が帰順したが、その子を尊んで天子とすれば衆民は疑念を持つかも知れず、また斉の民は謀り多い(故にますます疑うでしょう)、と諌めたため、張歩はこれを取りやめている[1]。
建武5年(29年)10月、後漢の建威大将軍耿弇が張歩の討伐に向かい、歴城で張歩の部将の費邑を斬り、臨菑へ進軍してくる。この時張歩は、盟友の蘇茂の援軍を仰いでいたが、耿弇軍は寡兵にして遠来のため疲労していると侮り、単独で先制攻撃を仕掛けた。結果は、惨敗に終わり、張歩は本拠地の劇へ敗走したが、光武帝自ら率いる軍が進撃してきたため、さらに劇も放棄し、平寿へ逃げ込む。張歩の余りの不様な敗戦に、蘇茂は、何で私の軍が到着するのを待てなかったのか、と責め、張歩も恥じ入ってしまった。
平寿に立て篭もった張歩と蘇茂に対し、光武帝は使者を派遣して、相方を斬って降れば列侯に封じると告げた。すると、張歩は蘇茂を殺害し、その首級を差し出して降伏する。光武帝は約束どおり張歩を安丘侯に封じ、その一族と共に洛陽へ移住させた。
しかし、建武8年(32年)、張歩は妻子を連れて臨淮に逃れ、弟の張弘・張藍と共に海上へ出て、かつての部下を集めようとし、結局琅邪太守陳俊の追撃を受け、尽く誅殺されてしまった。
参考文献
- 『後漢書』列伝2 張歩伝
- 同 本紀1上 光武帝紀上
- 同 列伝16 伏隆伝
脚注
- ^ ただし、更始政権滅亡前後には劉永もすでに天子を称しており、本来は劉紆がそれを後継するのは当然のはずである。王閎は、劉紆には劉永ほどの人望はなく求心力が望めないと判断したのであろう。