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「乙支文徳」の版間の差分

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==後世の評価==
==後世の評価==
12世紀に編纂された『三国史記』においては撰者[[金富軾]]の評として、乙支文徳伝(巻44)の末尾には、大国隋による未曾有の遠征を小国の高句麗が跳ね返して逆に撃滅することができたことは、独り乙支文徳の功績であるとしている。また金庾信伝(下・巻43)の末尾の評では、[[金ユ信|金庾信]](『[[三国史記]]』によれば、[[黄帝]]の子の[[少昊|少昊金天氏]]の子孫<ref group="註釈">『三國史記』列傳 第一:金庾信 上
12世紀に編纂された『三国史記』においては撰者[[金富軾]]の評として、乙支文徳伝(巻44)の末尾には、大国隋による未曾有の遠征を小国の高句麗が跳ね返して逆に撃滅することができたことは、独り乙支文徳の功績であるとしている。また金庾信伝(下・巻43)の末尾の評では、[[金庾信]](『[[三国史記]]』によれば、[[黄帝]]の子の[[少昊|少昊金天氏]]の子孫<ref group="註釈">『三國史記』列傳 第一:金庾信 上
:金庾信 王京人也 十二世祖首露 不知何許人也 以後漢建武十八年壬寅 登龜峯 望駕洛九村 遂至其地 開國 號曰加耶 後改爲金官國 其子孫相承 至九世孫仇亥 或云仇次休 於庾信爲曾祖 羅人自謂<span style="color:#ff0000;">少昊金天氏之後</span> 故姓金 庾信碑亦云 軒轅之裔 少昊之胤 則南加耶始祖首露 與新羅同姓也</ref>)の功績を称える引き合いとしてではあるが、[[張保皐]]の武勇とともに乙支文徳の智略を顕彰している。
:金庾信 王京人也 十二世祖首露 不知何許人也 以後漢建武十八年壬寅 登龜峯 望駕洛九村 遂至其地 開國 號曰加耶 後改爲金官國 其子孫相承 至九世孫仇亥 或云仇次休 於庾信爲曾祖 羅人自謂<span style="color:#ff0000;">少昊金天氏之後</span> 故姓金 庾信碑亦云 軒轅之裔 少昊之胤 則南加耶始祖首露 與新羅同姓也</ref>)の功績を称える引き合いとしてではあるが、[[張保皐]]の武勇とともに乙支文徳の智略を顕彰している。



2020年9月14日 (月) 23:09時点における版

乙支文徳
各種表記
ハングル 을지 문덕
漢字 乙支文德
発音 ウルチ・ムンドク
日本語読み: いつし ぶんとく
ローマ字 Eulji Mundeok
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乙支文徳(いつし ぶんとく、6世紀後半ころ - 7世紀初頭ころ)は、高句麗の将軍であり大臣。『三国史記』巻44・乙支文徳伝においては世系は不明とあるが、北朝鮮の平安道地方には「乙支文徳は石多(ソクダ)山の者で、山に入り道を極め、悟りを開いた」という伝説が残っており、このことから北朝鮮の首都平壌近くの出身という推測もある[1]沈着にして精悍な資質と、知略に優れ、文章を能くしたとする。[要出典]の第二次高句麗遠征(612年)(隋の高句麗遠征)において、隋軍に偽りの降伏を申し入れ撤退を開始した隋軍に追い討ちをかけ大勝利を収めた。その功績は高く評価されてはいるが、戦後の文徳の動向は『三国史記』には記事が残っておらず、死の状況についても詳細は解らない。

薩水大捷

高句麗の嬰陽王は、隋の第一次高句麗遠征で一時は降伏し和平を結ぶと見せかけて東突厥と通じていた。これが隋に露呈し、隋の煬帝は、60万の大軍[2]で高句麗軍に襲いかかった(第二次高句麗遠征 - 612年)。

隋軍は両翼左右それぞれ12軍に別れて兵を進め、宇文述于仲文らの9軍[3]鴨緑江の西辺に集い、高句麗と対峙した。

宇文述は煬帝より嬰陽王か乙支文徳将軍の捕縛を命じられていた。文徳は隋軍に投降するが、慰撫使の劉士龍が文徳を逃してしまう。このとき隋軍の兵備が重装にも関わらず兵糧が少なかったのを見ていた。文徳が自軍に戻ると、宇文述の追討軍を迎え撃った。文徳は一日に7回戦っても勝つことはできなかったが、その間に隋軍も兵糧が尽きて疲弊していた。隋軍は功がないまま薩水(清川江)を越えて平壌から30里ほどの山間に布陣していた。そこで平壌城の文徳は于仲文に降伏を表意する詩を書いて送り(次節#与隋将于仲文詩参照)、軍を撤収すれば嬰陽王を引き渡すと伝えた。功を焦った宇文述は停戦に応じ、方陣を組んで軍を退却を始めた。そこへ文徳の軍が襲い掛かり、薩水を渡ろうとしていた隋軍の背後を突いた。油断した隋軍は、右屯衛将軍の辛世雄が戦死するなど大きな被害をうけた。遼河を越えて高句麗に臨んだ隋の9軍30万5千人のうち、再び遼東城に戻ることができたのはわずかに2,700人であったという。『三国史記』ではこれを記念的な大勝利とし、韓国・朝鮮では「薩水大捷」と伝えている。

与隋将于仲文詩

"隋の将 于仲文に与ふるの詩"として伝えられる詩文(『三国史記』巻44・乙支文徳伝に所収)は以下の通りである。

神策究天文 ((隋軍の)優れた謀りごとは天の理を究め、)
妙算窮地理 (知略は地の理をも窮めるほどである。)
戦勝功既高 (戦勝の功績は既に甚だしく、)
知足願云止 (もう十分であることと認め、戦いを止められてはどうか?)

七戦七敗の末に隋軍を翻弄して引き付けた乙支文徳が、「隋軍はもう十分に勝ったから戦を止めてはどうか」と伝え、自らに戦う意志の無いことを示して隋軍を油断させようとしたものと見られている。

後世の評価

12世紀に編纂された『三国史記』においては撰者金富軾の評として、乙支文徳伝(巻44)の末尾には、大国隋による未曾有の遠征を小国の高句麗が跳ね返して逆に撃滅することができたことは、独り乙支文徳の功績であるとしている。また金庾信伝(下・巻43)の末尾の評では、金庾信(『三国史記』によれば、黄帝の子の少昊金天氏の子孫[註釈 1])の功績を称える引き合いとしてではあるが、張保皐の武勇とともに乙支文徳の智略を顕彰している。

現代の韓国の歴史教科書では、契丹の侵入を退けた姜邯賛文禄・慶長の役(韓国では壬辰・丁酉倭乱と称する)で日本水軍に大勝利した李舜臣とともに、外敵の侵入から祖国を守った英雄の筆頭として掲げられている。

米韓合同の軍事演習のコードネームには、乙支文徳が大陸からの攻撃を追い返したことから「ウルチ」と付くものが多い(例:乙支フリーダムガーディアン)。

脚注

  1. ^ KBS WORLD - 乙支文徳
  2. ^ 実際には輜重隊を含めて113万3,800人だったという。
  3. ^ このときの9軍は、『三国史記』高句麗本紀には宇文述・于仲文のほかに、荊元恒、薛世雄、辛世雄、張瑾、趙孝才、崔弘昇、衛文昇によるものとする。

註釈

  1. ^ 『三國史記』列傳 第一:金庾信 上
    金庾信 王京人也 十二世祖首露 不知何許人也 以後漢建武十八年壬寅 登龜峯 望駕洛九村 遂至其地 開國 號曰加耶 後改爲金官國 其子孫相承 至九世孫仇亥 或云仇次休 於庾信爲曾祖 羅人自謂少昊金天氏之後 故姓金 庾信碑亦云 軒轅之裔 少昊之胤 則南加耶始祖首露 與新羅同姓也

関連項目

参考文献