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「東郷実賢」の版間の差分

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'''東郷 実賢'''(とうごう さねかた、[[宝永]]6年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]([[1709年]][[6月18日]]) - [[安永]]9年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]([[1780年]][[4月29日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[薩摩藩]][[鹿児島城]]下士。[[剣術]][[示現流]]宗家師範である[[東郷実満]]の4男。[[諱]]は実賢。[[通称]]は藤弥左衛門、後に善助。[[東郷位照]]や[[東郷実勝]]の異母弟(但し、示現流聞書喫録付録系図では実勝同母弟とも)であり母は二階堂源右衛門行格(「旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三」の『二階堂氏正統系図』参照)の娘で、[[伊集院俊方]]の同母弟である。伯母は[[島津綱貴]]の側室で伯父は[[二階堂行宅]]。
'''東郷 実賢'''(とうごう さねかた、[[宝永]]6年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]([[1709年]][[6月18日]]) - [[安永]]9年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]([[1780年]][[4月29日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[薩摩藩]][[鹿児島城]]下士。[[剣術]][[示現流]]宗家師範である[[東郷実満]]の4男。[[諱]]は実賢。[[通称]]は藤弥左衛門、後に善助。[[東郷位照]]や[[東郷実勝]]の異母弟(但し、示現流聞書喫録付録系図では実勝同母弟とも)であり母は二階堂源右衛門行格(「旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三」の『二階堂氏正統系図』参照)の娘で、[[伊集院俊方]]の同母弟である。伯母は[[島津綱貴]]の側室で伯父は[[二階堂行宅]]。


上の2人の兄が遠島になり、さらに3番目の兄が伊集院家に養子入りしており、実満の子としては示現流東郷家に残った唯一の人物であったが、父の死後に[[家督]]相続した2つ年下の甥である[[東郷実はる|実昉]]同様に若年ゆえに示現流を皆伝するまでにいたらず、門弟を統べる力量はなかった。[[島津吉貴]]の許可を得て、[[薬丸兼慶]]を東郷家の代理として指南させることにした。
上の2人の兄が遠島になり、さらに3番目の兄が伊集院家に養子入りしており、実満の子としては示現流東郷家に残った唯一の人物であったが、父の死後に[[家督]]相続した2つ年下の甥である[[東郷実|実昉]]同様に若年ゆえに示現流を皆伝するまでにいたらず、門弟を統べる力量はなかった。[[島津吉貴]]の許可を得て、[[薬丸兼慶]]を東郷家の代理として指南させることにした。


後に小野村西之谷(現在の[[鹿児島市]]小野)に移住。72歳で死去し、[[曹洞宗]]松原山南林寺に埋葬された。
後に小野村西之谷(現在の[[鹿児島市]]小野)に移住。72歳で死去し、[[曹洞宗]]松原山南林寺に埋葬された。

2020年9月11日 (金) 22:09時点における版

東郷 実賢(とうごう さねかた、宝永6年5月11日1709年6月18日) - 安永9年3月25日1780年4月29日))は、江戸時代中期の薩摩藩鹿児島城下士。剣術示現流宗家師範である東郷実満の4男。は実賢。通称は藤弥左衛門、後に善助。東郷位照東郷実勝の異母弟(但し、示現流聞書喫録付録系図では実勝同母弟とも)であり母は二階堂源右衛門行格(「旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三」の『二階堂氏正統系図』参照)の娘で、伊集院俊方の同母弟である。伯母は島津綱貴の側室で伯父は二階堂行宅

上の2人の兄が遠島になり、さらに3番目の兄が伊集院家に養子入りしており、実満の子としては示現流東郷家に残った唯一の人物であったが、父の死後に家督相続した2つ年下の甥である実昉同様に若年ゆえに示現流を皆伝するまでにいたらず、門弟を統べる力量はなかった。島津吉貴の許可を得て、薬丸兼慶を東郷家の代理として指南させることにした。

後に小野村西之谷(現在の鹿児島市小野)に移住。72歳で死去し、曹洞宗松原山南林寺に埋葬された。

参考文献

  • 本田親礼「平姓東郷氏支族系図」天明2年(1782年)
  • 「鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三」