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[[天平]]9年([[737年]])[[従六位|従六位下]]から一挙に四階昇進して[[外位]]ながら[[従五位|従五位下]]に叙せられ、翌天平10年([[738年]])[[丹波国#国司|丹波守]]に任ぜられる。天平11年([[739年]])には早くも[[内位]]の従五位下となる。
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天平12年([[740年]])8月末に[[大宰府|大宰少弐]]・[[藤原広嗣]]が[[九州]]で反乱を起こすと、大将軍・[[大野東人]]らに続いて、9月5日に討伐のために[[勅使]]として九州へ派遣される<ref>『続日本紀』天平12年9月5日条</ref>(この時の[[官職]]は[[衛門督]])。同月22日に[[式部省|式部少輔]]・[[安倍虫麻呂]]と共に[[隼人]]24名・軍士4000名を率いて九州に渡海し、板櫃の営に陣取った。10月9日に藤原広嗣が10000名の兵士を率いて[[板櫃川]]に到着し、渡河しようとしたため、常人は虫麻呂と共に[[弩]]を射てこれを阻止した。常人は軍士6000名を率いて川の東岸に布陣すると、自陣営の隼人に「反逆人の広嗣に従って官軍に抵抗する者はその身を滅ぼすだけでなく、罪は妻子親族に及ぶ」旨を呼びかけさせた。そのため、広嗣が率いる隼人や兵士は敢えて箭を射かけようとしなかった。この時に常人らは広嗣に対して10回も呼びかけたが、応答はなかった。少し時間をおいて広嗣が騎乗のまま進み出て、[[朝廷]]に背くつもりはなく朝廷を乱している二人([[下道真備]]・[[玄ボウ|玄昉]])を却けることを請う旨返答する。これに対して常人らは「[[勅符]]を下賜するために大宰府の典(三等官)以上を召喚したのに拘わらず、なぜ兵を発して押し寄せてきたのか」と言ったところ、広嗣は返答できずに馬に乗って戻ってしまった。この経緯を見て広嗣側の兵士数十名が官軍側に降伏した(板櫃川の戦い)<ref>『続日本紀』天平12年10月9日条</ref>。11月に入って乱が鎮圧されたのちに行われた[[叙位]]において、常人は[[正五位|正五位下]]に叙せられている。
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その後も、天平13年([[741年]])正五位上、天平15年([[743年]])[[従四位|従四位下]]、天平20年([[748年]])従四位上と[[聖武天皇|聖武]]朝後半にかけて順調に昇進し、天平21年([[749年]])正四位下に至る。またこの間、天平17年([[745年]])正月の[[紫香楽宮]][[遷都]]に際して、急な造都であったことから本来その役割を担うべき[[石上氏|石上]]・[[榎井氏|榎井]]両氏を召集できなかったため、[[兵部省|兵部卿]]・[[大伴牛養]]と共に大楯と槍を宮の門に立てる役割を務めている<ref>『続日本紀』天平17年正月1日条</ref>。
その後も、天平13年([[741年]])正五位上、天平15年([[743年]])[[従四位|従四位下]]、天平20年([[748年]])従四位上と[[聖武天皇|聖武]]朝後半にかけて順調に昇進し、天平21年([[749年]])正四位下に至る。またこの間、天平17年([[745年]])正月の[[紫香楽宮]][[遷都]]に際して、急な造都であったことから本来その役割を担うべき[[石上氏|石上]]・[[榎井氏|榎井]]両氏を召集できなかったため、[[兵部省|兵部卿]]・[[大伴牛養]]と共に大楯と槍を宮の門に立てる役割を務めている<ref>『続日本紀』天平17年正月1日条</ref>。

2020年9月11日 (金) 22:08時点における版

 
佐伯常人
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 不明
官位 正四位下衛門督
主君 聖武天皇
氏族 佐伯氏
父母 父:佐伯大麻呂
兄弟 豊人、男人、常人、東人
鷹守
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佐伯 常人(さえき の つねひと)は、奈良時代貴族尾張守佐伯大麻呂の子とする系図がある。官位正四位下衛門督

経歴

天平9年(737年従六位下から一挙に四階昇進して外位ながら従五位下に叙せられ、翌天平10年(738年丹波守に任ぜられる。天平11年(739年)には早くも内位の従五位下となる。

天平12年(740年)8月末に大宰少弐藤原広嗣九州で反乱を起こすと、大将軍・大野東人らに続いて、9月5日に討伐のために勅使として九州へ派遣される[1](この時の官職衛門督)。同月22日に式部少輔安倍虫麻呂と共に隼人24名・軍士4000名を率いて九州に渡海し、板櫃の営に陣取った。10月9日に藤原広嗣が10000名の兵士を率いて板櫃川に到着し、渡河しようとしたため、常人は虫麻呂と共にを射てこれを阻止した。常人は軍士6000名を率いて川の東岸に布陣すると、自陣営の隼人に「反逆人の広嗣に従って官軍に抵抗する者はその身を滅ぼすだけでなく、罪は妻子親族に及ぶ」旨を呼びかけさせた。そのため、広嗣が率いる隼人や兵士は敢えて箭を射かけようとしなかった。この時に常人らは広嗣に対して10回も呼びかけたが、応答はなかった。少し時間をおいて広嗣が騎乗のまま進み出て、朝廷に背くつもりはなく朝廷を乱している二人(下道真備玄昉)を却けることを請う旨返答する。これに対して常人らは「勅符を下賜するために大宰府の典(三等官)以上を召喚したのに拘わらず、なぜ兵を発して押し寄せてきたのか」と言ったところ、広嗣は返答できずに馬に乗って戻ってしまった。この経緯を見て広嗣側の兵士数十名が官軍側に降伏した(板櫃川の戦い)[2]。11月に入って乱が鎮圧されたのちに行われた叙位において、常人は正五位下に叙せられている。

その後も、天平13年(741年)正五位上、天平15年(743年従四位下、天平20年(748年)従四位上と聖武朝後半にかけて順調に昇進し、天平21年(749年)正四位下に至る。またこの間、天平17年(745年)正月の紫香楽宮遷都に際して、急な造都であったことから本来その役割を担うべき石上榎井両氏を召集できなかったため、兵部卿大伴牛養と共に大楯と槍を宮の門に立てる役割を務めている[3]

官歴

続日本紀』による。

系譜

脚注

  1. ^ 『続日本紀』天平12年9月5日条
  2. ^ 『続日本紀』天平12年10月9日条
  3. ^ 『続日本紀』天平17年正月1日条
  4. ^ a b 鈴木真年『諸系譜』第8冊,佐伯宿禰

参考文献