「千手寺 (岡山市)」の版間の差分
Nobuhide matsumoto (会話 | 投稿記録) m →寺文書 |
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*千手寺の住職であった智算師は真言の法灯を護持した江戸時代の僧侶で、岡山県[[浅口郡]][[里庄]]の霊山寺、不動院、また[[笠岡]]の地福寺の住職でもあった。浅口郡は岡山県[[浅口市]][[鴨方町]]の[[阿部山]]に[[安倍晴明]]の屋敷跡と伝わる[[安倍神社]]等があることからも、岡山における[[陰陽道]]ゆかりの地でもある。 |
*千手寺の住職であった智算師は真言の法灯を護持した江戸時代の僧侶で、岡山県[[浅口郡]][[里庄]]の霊山寺、不動院、また[[笠岡]]の地福寺の住職でもあった。浅口郡は岡山県[[浅口市]][[鴨方町]]の[[阿部山]]に[[安倍晴明]]の屋敷跡と伝わる[[安倍神社]]等があることからも、岡山における[[陰陽道]]ゆかりの地でもある。 |
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千手寺を開創したと伝えられる報恩大師は[[吉備真備]]、[[安倍仲麻呂]]と共に入唐した[[玄昉]]の弟子である。俗姓阿刀氏である玄昉の師が同じく阿刀氏の[[義淵]]であり、弘法大師[[空海]]の母方も阿刀氏と伝えられている。義淵の弟子として[[行基]]・[[道鏡]]が連なる |
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2020年9月11日 (金) 22:07時点における版
千手寺(岡山市) | |
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所在地 | 岡山県岡山市北区大内田581 |
位置 | 北緯34度37分54秒 東経133度50分43.1秒 / 北緯34.63167度 東経133.845306度 |
山号 | 遍光山 |
宗派 | 高野山真言宗 |
寺格 | 旧京都仁和寺本山直末一等格院 |
本尊 | 伝 行基作 千手千眼観音菩薩 |
創建年 | 天平勝宝4年(752年) |
開基 | 報恩大師 |
正式名 | 一等格院 遍光山 蓮華院 千手寺 |
札所等 |
備中霊場第25番 千手寺地場大師八十八カ所霊場 山陽新聞まいられぇ岡山 |
公式サイト | [*千手寺ホームページ ] |
法人番号 | 4260005000560 |
千手寺(せんじゅうじ)は、岡山県岡山市北区にある高野山真言宗の寺院。山号は遍光山。院号は蓮華院。本尊は千手観音。寺格は旧御室本山御直末一等格院。寺紋は梅鉢(鎮守が天神)・丸に五竜胆車・五七の桐紋・五芒星(陰陽道)。
歴史・一等格院・天領(元禄4年『千手寺縁起』より)
千手寺(水脈・龍神信仰から千龍寺ともいう)は、江戸時代、元禄4年(1691年)備前岡山藩初代藩主池田忠継(徳川家康の外孫にあたる)・荒尾家ゆかりの瑞松山 景福寺 透海が、当時の千手寺住職 専栄の依頼により記した『千手寺縁起』によると、天平勝宝4年(752年)に奈良・南都六宗の一つ、法相宗の高僧 報恩大師(真言古流 小嶋流を伝える、奈良 報恩山 千壽院 子嶋寺を開基)により創建され、当地 弥陀八幡宮(岡山藩池田家の崇敬が殊に篤く、毎年6月24日の祭典には領主の代参があった)の社職を務めたと伝えられる(報恩大師創建の寺院は本尊が千手観音であることが特徴となり、『千手寺縁起』にも奈良 子嶋寺が言及されている)。 また、それを裏付けるように現コンベックス内の天神坂遺跡発掘調査により寺院跡が確認され平安中期・後期の瓦も発見されている(岡山県文化財保護協会 『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告53』 )。
千手寺のある大内田は、小京都で知られる周防国府(現在の山口県)の大内氏の所領であったと伝えられるが、慶長5年(1600年)から戸川庭瀬藩領、さらに遠江(静岡)浜松藩領となり、後に徳川江戸幕府の天領(倉敷代官所による倉敷支配所)に編入されている。
元禄15年(1702年)備前と備中の国境が備前の久米村、今保村と備中の延友村の間で水利権問題で紛糾した際も、天領である大内田の庄屋孫四郎が境目川の仲裁をなしている。 明暦年間に、池田光政により、法界院より千手観音堂、ならびに、山田村から高梁川からの十二ヶ郷用水の水脈信仰として祀られ妹尾兼康に信仰された天満宮が移転されたことを踏まえると、天領における寺院としての千手寺の背景がうかがえる(天領寺院としての千手寺)。
『千手寺縁起』によると、嘉暦元年(1326年) 四国・讃岐屏風浦 五岳山 誕生院 善通寺派総本山善通寺中興の祖 宥範法印により堂塔を建立、天正13年(1585年) 宗覚僧都により再興され、京都・大内山 御室派総本山仁和寺末となり、その後、京都御室本山直末の一等格院(本山御直末寺・中本寺)として、千蔵坊、大蔵坊・無量寺、観音堂、三昧寺、蓮華寺、玄光院、天満宮、祇園神社、五社神社、厳島神社、阿弥陀八幡宮などの多くの坊社を近隣に備え「上寺(かみでら)」とも称されてきた。
また、妹尾の啓運山盛隆寺が 慶長10年(1605年)、庭瀬藩主 戸川達安により真言宗から日蓮宗へ改宗、それにともない住民も日蓮宗へ改宗となったが(改宗した者はその年の年貢を納めなくなくてもよく「未進法華」という)、庭瀬・撫川・妹尾・妹尾崎の真言宗の法灯と信仰を護持する檀信徒は千手寺へ継承されることとなった。
江戸時代には徳川江戸幕府直轄地の本寺ゆえか千手寺には、現在の客殿と本堂が一体型の建物が建ち、寺侍が仕え、詰所と茶室が設けられていたと伝わる(山門は武家屋敷の門を移築したもので一伝には岡山藩家老職の伊木家の門の一つであったという。2016年改築)。千手寺寺領としては、現在の庭瀬駅から旧二号線の通りに面する、中国銀行の建物あたりが、戦後の農地解放でのGHQによる払い下げまでの寺領という。また倉敷駅近くの大島にもかつての寺領があり、足守川沿いには「南円ごう」と呼ばれる寺領も有していたという。
第二次大戦後、高野山真言宗への転派を経て現在に至る。
寂厳大和上による『千手寺縁起』
- 岡山を代表する高僧で近世四大書僧の一人、真言密教の法流である新安祥寺流・三宝院房玄方を相承した寂厳大和上(元禄15年9月17日~ 明和8年8月3日・その法統に釈雲照大和上も連なる)によって宝暦10年(1760年)に記された『千手寺縁起』によると、千手寺は大内田弥陀八幡宮の別当職を務め、天神山 天満宮(菅大神)の祠は千手寺の鎮守であり、山林は寺有林であったという。また、千手寺は、かつて庄中村にあった曼荼羅寺から分かれた大内田の大蔵坊・上庄村の興性寺・庄中村の浄土坊・下庄村の宝性寺(後に宮内・普賢院「預かり」となると記されている)の四院をまとめ千手寺結衆となし、曼荼羅寺什物だった涅槃軸を祭祀したという(千手寺涅槃軸の由来)。寂厳大和上と歴代千手寺住職は親しく、『千手寺縁起』によると、千手寺歴代住職のうち、専栄・京算とは懇眷(親しい同門の意味)、一實・正観は門下であったと記されている。
学問寺としての千手寺
- 智算・栄算近住の碑 千手寺には江戸時代初期、寛文・元禄期の学僧、智算・栄算近住の碑が祀られている。近住とは夏安居の意味であり、寺紋の一つが梅鉢で天神様(天満大自在天神)を祀る学問の寺として、当時の千手寺の住職でもあった智算師(里庄の霊山寺・不動院・笠岡の地福寺を歴任)・栄算師を囲み、僧侶としての守るべき戒律を確認する布薩会並びに勉強会を行っていたと考えられる。
本尊
信仰の対象・秘仏として原則非公開。
- 御本尊千手観音菩薩像(行基作と伝えられている)、不動明王、毘沙門天は33年に一度開帳の秘仏として祀られている
千手寺五芒星
信仰の対象・秘仏として原則非公開になっている。
- 千手寺五芒星
かつて吉備の穴海と呼ばれた岡山市内全域と妹尾兼康の十二ヶ郷用水を見渡す小峰にある千手寺の千手観音堂(弘法大師堂)には全国的にも珍しく寺院でありながら陰陽五行思想・陰陽道の五芒星が現・大師堂の厨子の天頂部に祀られている(千手寺五芒星)。 五芒星には金箔が貼られており、太陽、明けの明星である金星、または北斗七星を示すと考えられる。 そのことから、密教の行法としては①浄土信仰から極楽浄土を願う日想観・②虚空蔵法・③節分の星供、妙見信仰との関連が窺える。
- 千手観音堂(大師堂)
かつては朱塗りされており「求聞持堂」の作りになっている。 正面に 弥勒菩薩の梵字であるユ字・竜神が彫刻されている。未申年の守護仏で智慧の霊水を表す 大日如来の梵字であるバン字の刻まれた手水石が置かれている。建築様式としては禅宗様であり、江戸時代、池田光政により、岡山市 金剛山 遍照寺 法界院(古くは旭川沿いの備前・笠井山は西谷山 妙塔寺という大伽藍を有する大寺院。千手寺は上東の西方院、早島の安養院とともに当地における法界院結衆の寺院である)から移築したとの伝がある。後戸には鎮守として稲荷(荼枳尼天)が祀られている。
寺尊
信仰の対象・秘仏として原則非公開。
- 如意輪観音像並びに垂迹であるズイグさま(随求菩薩)の鎮宅霊符軸
- 薬師如来像並びに垂迹である妙見さまの鎮宅霊符軸
- 毘沙門天(本尊の脇持・小像)並びに刀八(兜跋)毘沙門天曼荼羅軸 二柱の玄武神を鐙として踏みしめ、獅子に騎乗した刀八(兜跋)毘沙門天を中心に、霊狐、大黒天、弁才天、ダキニ天、稲荷神等が曼荼羅をなしたもの
- 地蔵菩薩(本尊の脇侍・石仏)並びに将軍地蔵曼荼羅軸
- 弥勒菩薩(石仏)
- 普賢延命菩薩(小像)真言宗系である4頭の白象の上に、天台宗系の二臂金剛薩埵形のもの
- 大黒天(小像)並びに摩訶迦羅天・七母女天曼荼羅軸(理趣経第十三段・七母女天段における七母女天と摩訶迦羅天=大黒天を祀ったもの)
- 不動明王(本尊の脇持)並びに四臂不動明王曼荼羅軸(世天段の四臂不動明王を中心に悪星を退治する毘沙門天・梵天、そして干支等の動物たちが曼荼羅となったもの)
- 弁才天(修法・修行に用いる念持仏)並びに弁才天如意宝珠曼荼羅軸(弁才天と童子たちが各々如意宝珠になったもの。弁才天五部経の一つ『仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経』による如意宝珠としての弁才天と思われる)
- ダキニ天(念持仏)
- 賀利帝母(鬼子母神・念持仏)
- 釈迦如来(小像)
- 阿弥陀如来 並びに僧形八幡軸(当地の八幡宮は弥陀八幡と言われ以前は光明真言を唱えた。八幡宮は千手観音と同体の阿弥陀如来を祭祀する千手寺奥の院であったと考えられる。また八幡神社には明暦年間に、岡山藩池田光政の手により、備中・高梁川からの十二ヶ郷用水の水脈信仰として祀られ妹尾太郎兼康により信仰された天満宮が山田村から移転され、また役行者、前鬼・後鬼も祀られている)
- 五帝龍神・五帝五龍王(五大明王)の御幣
伝承・霊場・その他
霊場
- 千手寺八十八ヶ所霊場
四国八十八ヶ所霊場(阿波・土佐・伊予・讃岐)を勧請したもので江戸時代の創建と伝えられている。それぞれ妹尾崎・坪井・矢尾・大内田村に対応している。
伝承
- 織田信長公鎮魂の涅槃図(大軸・信仰の対象として原則非公開になっている)
千手寺涅槃図由来書によると、江戸時代、徳川江戸幕府直轄の天領の本寺である千手寺に、敬仏敬神な檀家一族(織田信貞の血をひくという伝が有る)の手により、織田信長並びに当家代々の霊が、千手寺本堂にて安らがれることを祈願して奉納された。
また、織田家と陰陽道としては、織田信重の娘は陰陽師・安倍晴明の子孫である土御門泰重の妻となり、土御門神道を提唱する土御門泰福の母でもある。
- 星見の井戸 現在は本堂地下にある。千手寺の井戸は星見の井戸であったと伝えられ、日中でも星々が見えたという
- 金の霊鶏伝説 千手寺から臨む妹尾崎の山(茶山ともいう)は霊水を産するといわれ現在では妹尾地区にわたる水源地となっているが、陰陽五行思想から水を産する金の霊鶏が埋められているとの伝説がある。また霊鶏は闇を祓い旭光を告げる太陽信仰の象徴でもある。
- 荒井川楯右衛門の伝承 大内田には千石船を何隻も備えた廻船業の荒井川家があり、初代の荒井川楯右衛門は相撲取りであったという。かつて大内田付近が船舶の出入りする入江・漁港であったことをしのばせる伝承である。
千手寺とその周辺
- 塚山古墳 現在は塚山公園として公の管理になっているが、千手寺の歴代住職が祭祀を行っていたと伝えられている。
千手寺が祭祀をしていた五輪塔があったが公の管理になった後、盗難にあい現在に至る
- ねんね池と如意輪観音 過酷な年貢などの関係で生まれた子を水に返す池があり、女人救済の仏として如意輪観音が祀られた
- 大内田廃寺 現コンベックス内の天神坂遺跡発掘と共に発見された。発掘調査により平安中期の瓦も発見されており、また12世紀後半から13世紀前半に焼失したとされる。千手寺の子院もしくはかつての千手寺の位置した場所であったと考えられる(岡山県文化財保護協会 『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告53』 )。
- 妹尾崎と文人永井荷風 戦争中、岡山に疎開していた文人の永井荷風は、千手寺の向かいの妹尾崎の山にある晴耕園を訪れている。
千手寺五芒星と岡山の陰陽道
- 千手寺の住職であった智算師は真言の法灯を護持した江戸時代の僧侶で、岡山県浅口郡里庄の霊山寺、不動院、また笠岡の地福寺の住職でもあった。浅口郡は岡山県浅口市鴨方町の阿部山に安倍晴明の屋敷跡と伝わる安倍神社等があることからも、岡山における陰陽道ゆかりの地でもある。
千手寺を開創したと伝えられる報恩大師は吉備真備、安倍仲麻呂と共に入唐した玄昉の弟子である。俗姓阿刀氏である玄昉の師が同じく阿刀氏の義淵であり、弘法大師空海の母方も阿刀氏と伝えられている。義淵の弟子として行基・道鏡が連なる
陰陽道はその吉備氏(加茂氏)・安倍氏(安倍晴明)とかかわりのあることから、千手寺は陰陽五行の調和のシンボルである五芒星により、岡山市内・河川全体を見渡しながら守護・鎮守してきたと考えられる。 (また、陰陽道と千手寺の関わりについては、所在地である大内田の由来の一つが、小京都で知られる周防国(山口)の戦国大名である大内氏の所領であったことから、領主である大内氏が陰陽道を信仰していたことの名残ではないかとも考えられる)
そのことから陰陽道の祖である真備町の吉備真備、また岡山県の高梁川流域から広島県・香川県にかけて活躍した、京都の土御門家ともかかわる、民間陰陽師の上原大夫との関連も含め、岡山の陰陽道のネットワークを伺うことができる。
- 上田秋成の「雨月物語」中、「吉備津の釜」において、主人公として庭瀬の住人・吉備津神社の神主の娘と鬼神温羅(うら)による鳴釜神事・播磨の刀田の陰陽師・旭日をつげる霊鶏があらわれるが御霊信仰・ミサキ信仰と並び、吉備の中山における吉備津彦神社・吉備津神社と、その裏鬼門でもある大内田の千手寺五芒星に、吉備の国における陰陽道信仰の関連が窺える
著名人の墓所
千手寺文書
文書
- 京都 丹波亀山藩 家臣、松平貞幹(帯刀)によるもの。
- 江戸時代 水嶋ト也 礼法伝書
- 玉島山下町の丹波亀山藩陣屋にて神道儀礼を研究した歌人・国学者である福武光重によるもの。
岡山 浅口郡船穂は京都 丹波亀山藩の飛び地であり、暁瀧山 寶満寺は武運龍昌を祈る祈願寺であった。千手寺は、倉敷美観地区の宝寿山 観龍寺とともに寶満寺の格院結衆の寺院である
- 寛政5年 仏師巻物(一巻)
- 江戸時代 宮大工師 龍伏幣地鎮作法巻物(一巻)
- 江戸時代 算師巻物(一巻)
寺文書
寺文書
- 江戸時代 龍神加持次第
- 江戸時代 大黒天神法 『覚禅抄』の抜書
- 宝暦6年 大黒天講伽陀 京都 金光明四天王 教王護国寺 秘密伝法院(現 真言宗総本山東寺)旧蔵 観智院13代 賢賀 自筆の次第
- 江戸時代 金堂落慶表白 高野山 青厳官寺(現 高野山真言宗総本山金剛峯寺) 旧蔵 高野山一山の総本堂である金堂再建落慶の際、金剛峯寺376世座主 増応の代として、龍生院深雄によるもの。龍生院とは、大師住房の龍光院、灌頂伝授の灌頂院とならび、声明伝授の道場とされた院である。江戸時代金剛峯寺の法則箱に永世伝承とされたもので、昭和元年の大火で創建以来の本尊等が焼失した中でも、かろうじて難を逃れたもの。龍生院深雄は岡山児島の中本寺通生山般若院の住職も務めた。
- 江戸時代 理趣釈経曼荼羅 真言宗石鈇派総本山 石鉄山 金色院 前神寺が別当寺である石鈇山常住社(現 石鎚本教総本宮石鎚神社) 石鉄山大権現宝庫 旧蔵 高野山 金剛峯寺373世座主 心王院徳淵が自ら奉納したもの
- 江戸時代 遷座・御遷座次第 新義真言宗総本山 智積院 旧蔵 智積院第37世能化 大幢信海旧蔵の次第 並びに御遷宮作法 智積院第37世能化 信海僧正直筆の次第。信海能化(1783ー1856)は俱舍唯識を智積院第32世海応能化に学び、智山の性相学の学統を確立し、現在の根来寺大門を建立した学匠である。
- 江戸時代 随流伝授目録 真言宗善通寺派総本山 善通寺 第21世管長 光国僧正 自筆による随心院流伝授目録
- 江戸時代 不動明王・愛染明王・弁財天・両所明神表白 高野山 清浄心院旧蔵
- 江戸時代 千手観音供養法 高野山 丹生院旧蔵 高野山 南谷 補陀落院性海の次第を興辨が書写し、高野山一山の地主神である丹生都比売(にふつひめ)を祀る丹生一族の氏寺であった丹生院本堂にて用いられたもの
- 江戸時代 阿弥陀法 高野山 西室院旧蔵
- 江戸時代 小嶋流千手観音次第・虚空蔵次第 小嶋流高野山大門方の次第
- 江戸時代 小嶋流荒神供次第(十八道立)雄昌によるもの
- 天明7年 小嶋流歓喜天双身法・真奥夢想伝・相承口伝 高野山 金剛峯寺沙門明道の伝・小嶋聖天灌頂印明 高野山 釈迦文院本の写し
- 天明6年 聖天尊小嶋流三日頓成法 高野山 金剛三昧院経庫良恩手択本の写し・聖天小嶋像 高野山 南院蔵の写像
- 天明6年 小嶋流金輪自行秘次第 明道伝 金剛三昧院蔵本の写し
- 天明6年 小嶋流大事 宥智私記 明道伝 金剛三昧院蔵本の写し
- 天明6年 小嶋流本命元神祭図(星供敷曼荼羅)金剛三昧院経庫本からの書写・法華曼荼羅図等 小嶋流伝授の際に授与
- 江戸時代 小嶋流十八道次第・金剛界次第 金剛三昧院経庫本からの蓮金院龍遍、南院唯圓の写本を、京都洛東清水寺蔵本と校合し朱を入れたもの
- 江戸時代 小嶋流折紙集 奈良 斑鳩 岡本山 法起寺旧蔵
- 享保7年 壷坂三部五部密印言口伝・三部灌頂・五部灌頂印言 蓮體により伝授
- 貞享元年 高野山・金剛峯寺図 真然僧正秘記 明王院本を貞享元年に書写したもの
- 正保2年 高野山壇上諸堂並天野慈尊院記 江戸時代の写本
- 文化3年 中院流加行伝授目録四度真源記 三宝院本からの補陀落院性海、南院唯仁の写本を文化3年に南谷万徳院栄獄が写したもの。 高野山成蓮院真源は南山進流声明を大成、寛保2年、備前岡山の瓶井山禅光寺安住院にて三宝院憲深方の一流伝授・結縁灌頂を行っている。
- 延享元年 開眼法 南谷万徳院 秀禅のもの
- 明和3年 荒神供次第 応永17年の法印宥快による次第を覚道が写したもの
- 明和期 涅槃・明神・舎利講式の巻子本(廉峯版)高野山 正覚院旧蔵に、声明の大家である理峯の弟子の普照が朱を入れたもの
- 江戸時代 韻鑑切紙 高野山 千手院谷 常楽院旧蔵
- 江戸時代 大日経疏第一・二・三末問題、秘蔵寳論下巻(第六・七・八住心)問題 等 高野山 丹生院旧蔵(宣永等)
- 江戸時代 御流神道(乾坤) 高野山 金剛峯寺342世座主 平等院義弁より伝授された際の写本
- 室町時代 諸大事諸加持目録 高野山 谷上 増福院旧蔵 (増福院とは、弘法大師に祈ることで七生流転を悟られて護法の天狗となられた鎌倉時代の事相の大家、覚海大徳ゆかりの院である)
- 江戸時代 神道大事十四箇条目録・神道大事十四箇条・唯一遷宮次第・遷宮行列次第・祓祝言 高野山 日光院 英仙の法流を汲む弟子・増長院 鑁善(輝潭)によるもの
- 江戸時代 神道護摩次第 高野山 増長院主鑁善の次第を實辨が書写したもの
- 江戸時代 神拝之許札 高野山の裏鬼門で太元師明王を祀る西南院隆快(金剛峯寺377世座主)が授与したもの
- 江戸時代 神道灌頂清軌 慈雲尊者のものを閑々子がまとめたもの
- 江戸時代 賀利帝(鬼子母神)拝殿神道灌頂三輪流荘厳図・次第 北斗七星を祀る河内(大阪)檜尾山 観心寺にて執行された際のもの
- 享和元年 大日経疏伝授鈔(或本) 浄厳中興の河内長野 薬樹山 延命寺 (河内長野市)にて講伝された際に書写されたもの
- 正徳5年 最極秘密法界體伝法灌頂阿闍梨位印明 蓮體(叔父 浄厳のもとで出家、安祥寺流の印可を受け延命寺二世となる。地蔵寺を中興)により伝授
- 慶安3年 不動明王念誦次第 奈良 西大寺 叡尊、尊鏡の伝を加えた大安寺宗英のものを元興寺極楽院 金剛佛子賢瑜(西大寺49世長老)が次第の形にまとめたもの。賢瑜和尚栄順上人は元興寺極楽院よりはじめて西大寺49世長老に選任された。
- 江戸時代 仁和三流の 西院流・宏教(禅遍)「異水」のうち第四結(大法)、第五結(灌頂)の写し
- 室町時代 応永24年(1417年) 京都 上醍醐・光明心院弘鑁等御書写の秘鈔等の巻子本24巻
葉上流
日本臨済宗の開祖、葉上房栄西が伝えた天台密教の流派で台密十三流の一派であり、建仁寺流とも称される。 備前金山寺を中心とした報恩大師ゆかりの寺院に伝えられる。千手寺は備中における金山寺結集として江戸期葉上流次第を伝える。
- 『金剛界持誦』・『胎蔵界持誦』 江戸期寶永7年 伝統大阿闍梨 智鋒版の次第
中川善教師御遺稿
親王院善教師 昭和期の声明家(真言声明南山進流) 高野山大学名誉教授;高野山真言宗(金剛峯寺)第476世寺務検校執行法印の御遺稿
- 中川善教自筆日誌
- 中川善教師が自らの研究や修法の毎日をつづった日誌 (非公開)
- 中川善教自筆原稿
- 『顕教と密教』
- 『勝宗十句義論と阿毘達磨倶舎論』
- 『金尾文淵堂主人を悼む』
- 『金沢文庫蔵声明本目録』(未発表草稿)
- 『金沢文庫の沿革』
- 中川善教自筆写本
- 『梵字心経』
- 『頓漸断異説』
- 『義読名手』
- 『双峯山曹侯渓宝林伝 巻一』
- 『四十二章経』
- 『勝鬘経(十大受・三大願)』
- 中川善教自用次第
- 『明治改正南山進流魚山蠆芥集』(明治期の声明家 葦原寂照による初版本を親王院善教師が求めたもの)
- 『進流魚山蠆芥集』(高野山大学教授・高野山専修学院学院長を歴任した明治〜昭和期の声明家、岩原諦信師が中川善教師に自ら贈った次第)
- 中川善教旧蔵文庫
- 『綜藝種智院式并序』(上杉神社出版に中川善教師自ら朱を入れたもの)
- 『唯識大意』
- 中川善教旧蔵 水原堯栄師自筆御遺稿
- 『親王院金剛寳蔵』・『金山穆詔上綱遺稿 真言宗事相大観 目次』・『密教観法私考』(水原堯栄師自著署名旧蔵)
服部如実師講義・講伝資料
服部如実師 昭和期の真言宗醍醐派総本山 醍醐寺 醍醐山伝法学院長 種智院大学教授による講義・講伝資料
- 服部如実自筆講義・講伝資料
- 『般若心経秘鍵分科』(種智院大学 長谷宝秀師より借覧、書写したもの)
- 『菩提心論』
- 『秘蔵寳論科文』
- 服部如実自用次第
- 『土砂加持法則』(葦原寂照師によるもの)
- 服部如実旧蔵文庫
- 『仏教学概論』(斎藤唯信師 著)
- 『邪教立川流の研究』(水原堯栄師 著)
陰陽道・神道関連文書
- 江戸時代 安家( 安倍晴明家・陰陽道土御門家)・渋川家( 渋川春海家)伝授目録 並びに次第文書
- 江戸時代 倉橋家(陰陽道土御門家庶流堂上家)宮中出仕辞令等文書 数十通 並びに倉橋家百人一首
- 天社玄櫛 陰陽道の霊符を記したもの
- 天社土御門神道極伝
- 京都 伏見稲荷社家 祓川家 家伝文書(伏見稲荷大社は真言宗総本山東寺の鎮守社で、日本全国の「稲荷神社」の総本宮である。祓川家は社家の一つで古代氏族 秦氏の末裔である)
- 江戸時代 賀利帝(鬼子母神)拝殿神道灌頂三輪流荘厳図・次第 北斗七星を祀る河内(大阪)檜尾山 観心寺にて執行された際のもの
- 江戸時代 神道灌頂(日本紀灌頂)本尊 草薙霊剣(天叢雲霊剣)図(神仏習合において真言密教により象徴化されたもの)
- 江戸時代 麗気灌頂印信類
- 江戸時代 雲伝神道灌頂清軌 慈雲尊者のものを閑々子がまとめたもの
- 江戸時代 天尊北斗北辰鎮宅霊符神勧請厨子
- 江戸時代 須弥山図軸
- 江戸時代 須弥山儀軸 普門律師円通による梵暦を顕したもの。のちに土御門家に弟子入りした田中久重(東芝創立者)により実際に製作される。
侯爵池田家文書
旧岡山備前藩主、池田侯爵家の御家則等の家伝文書類数十点(明治維新から大正初期のもの)
年中行事
- 1月:初観音大祭
- 4月:花まつり
- 8月:施餓鬼法要
- 毎月:密教志塾
- 年4回:仏教志塾
所在地
岡山県岡山市北区大内田581千手寺
参考文献・出典
- 元禄4年(1691年) 瑞松山 景福寺 透海 『遍光山千手寺縁起』
- 宝暦10年(1760年) 矢上山 阿弥陀院 寂厳大和上 『遍光山千手寺縁起』
- 千手寺涅槃図由来書
- 大内氏と陰陽道について
- 千手寺八十八ヶ所霊場について
- 岡山市大内田周辺民俗文化財調査委員会、『地場大師八十八ヵ所調査報告書』岡山市大内田周辺民俗文化財調査委員会、1981年。
- 千手寺の建築様式、並びに同地域の統治権の変遷について
- 千手寺八十八ヶ所の所在地である、現コンベックス岡山周辺の遺跡並びに大内田廃寺について
- 岡山県文化財保護協会、『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告53(岡山県総合流通センター建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告)』 岡山県埋蔵文化財保護協会、1983年。
- 岡山における陰陽道のネットワークについて
- 『晴明伝説と吉備の陰陽師』(高原 豊明)岩田書院、2001年。
外部リンク
座標: 北緯34度37分54秒 東経133度50分43.1秒 / 北緯34.63167度 東経133.845306度