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[[紀元前204年]]の[[夏]]6月に、項羽率いる十万の軍勢が[[滎陽市|滎陽]]城([[河南省]])の漢軍を包囲した。食糧が尽き落城寸前に陥った時に、[[陳平]]は劉邦に対して、紀信が劉邦に扮して楚に降服するふりをして、その隙に劉邦が逃亡する策([[金蝉脱殻]]の計)を進言した。紀信はその献策を受け容れて、まもなく劉邦は陳平ら数十騎と共に[[成皋郡|成皋]]城に脱出した。囮となった紀信は項羽によって[[火刑]]に処された<ref>[[紀元前180年]]秋に呂氏の専横を防がんとした[[太尉]]・[[周勃]]に旌節を授け、これを補佐した上記の紀通は『史記』[[張晏]]註では「紀信の子」と述べているが、『漢書』が引く[[晋灼]]註および[[顔師古]]註では「紀成の子」であり、「紀信の子」であることは否定している。さらに『[[資治通鑑]]』が引く[[胡三省]]註では「紀成は紀信の別名ではないか」と述べている。 </ref>。 |
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[[宋 (王朝)|宋]]代に'''忠佑安漢公'''、[[元 (王朝)|元]]代に'''輔徳顕忠済王'''、[[明]]代に'''忠烈侯'''の諡号などを贈られている。 |
[[宋 (王朝)|宋]]代に'''忠佑安漢公'''、[[元 (王朝)|元]]代に'''輔徳顕忠済王'''、[[明]]代に'''忠烈侯'''の諡号などを贈られている。 |
2020年9月11日 (金) 21:32時点における版
紀 信[1](き しん、? - 紀元前204年)は、中国の秦末の武将。漢の劉邦に仕えた。
概要
紀元前207年の鴻門の会で、劉邦が項羽から逃れた際に、樊噲・夏侯嬰・靳彊らとともに参軍として劉邦を護衛した[2]。
紀元前204年の夏6月に、項羽率いる十万の軍勢が滎陽城(河南省)の漢軍を包囲した。食糧が尽き落城寸前に陥った時に、陳平は劉邦に対して、紀信が劉邦に扮して楚に降服するふりをして、その隙に劉邦が逃亡する策(金蝉脱殻の計)を進言した。紀信はその献策を受け容れて、まもなく劉邦は陳平ら数十騎と共に成皋城に脱出した。囮となった紀信は項羽によって火刑に処された[3]。
宋代に忠佑安漢公、元代に輔徳顕忠済王、明代に忠烈侯の諡号などを贈られている。
脚註
- ^ 『漢書』高帝紀では、紀信ではなく「紀成」とされ、鴻門の会では『史記』項羽本紀同様に他の武将とともに劉邦を護衛した。後に劉邦が漢王となると、侯に封じられた。まもなく上将軍・韓信に従って、紀元前206年秋に好畤で章邯の弟章平と姚卬と戦って戦死した。漢王朝が成立されるとその子の紀通(後の襄平侯)が後を継いだ、と記されている。
- ^ 『史記』項羽本紀による。
- ^ 紀元前180年秋に呂氏の専横を防がんとした太尉・周勃に旌節を授け、これを補佐した上記の紀通は『史記』張晏註では「紀信の子」と述べているが、『漢書』が引く晋灼註および顔師古註では「紀成の子」であり、「紀信の子」であることは否定している。さらに『資治通鑑』が引く胡三省註では「紀成は紀信の別名ではないか」と述べている。