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ノート:紀信

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旧版では紀通との関係・紀通封侯の時期について疑わしい記述があったので、以下に訂正の根拠を示す。

  • 漢書・高后紀
「襄平侯の紀通は符節を尚(つかさど)っていた。周勃に節を持たせ、天子の命と偽って北軍に入らせた」
張晏曰く「紀通は信の子である。尚は主(つかさどる)の意であり、現在の符節令である」。晋灼曰く「紀信は焚死し、その子孫は見受けられない。史記・功臣表によれば紀通は紀成の子である。成が戦死したことにより、封侯された」。顔師古曰く「晋説是なり。」
  • 史記・高祖功臣侯者年表第六
襄平
「紀成は将軍として高祖に従い秦を討つ。漢に入り、三秦を定め、平定の功により侯とされた。好畤で戦死した。子の通が成の功績を相続し、封侯された。」
「高祖八年後九月丙午、紀通を侯とす。」

なお、紀信の項で(たとえ親子であっても)別人である紀通について、紀信とほぼ同じ分量の記事を載せること自体がそもそも不当であると考える。 --219.126.201.224 2007年6月18日 (月) 08:23 (UTC)[返信]

余談ではあるが、鴻門の会の帰途で樊噲夏侯嬰靳彊らとともに劉邦を護衛したのは紀信ではなく紀成である。漢書・高帝紀を参照。--219.126.202.184 2007年6月24日 (日) 10:08 (UTC)[返信]
『史記』ではその部分は紀信になっています。そのあたりの研究の動向は全く知らない状態なのであまり大きな事は言えないのですが。らりた 2007年6月24日 (日) 11:22 (UTC)[返信]
ご指摘の通りです。お恥ずかしい限りです。--219.126.200.138 2007年6月24日 (日) 15:30 (UTC)[返信]
『漢書』高恵高后文功臣表第四を確認しましたが、紀成が好畤で戦死した事項は確認できませんでした。「紀城(紀成)、韓信に従い三秦を平定する功績を残した」とのみ記されています。--2405:6581:43C0:A600:611D:7769:CCFA:C766 2020年12月20日 (日) 08:39 (UTC)[返信]