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先祖は西域[[オングト]]部、[[アッシリア東方教会]]に属する[[色目人]]の子孫である。『元史』列伝・第三十によると、浄州天山(現在は[[内モンゴル自治区]] [[四子王旗]] 西北城卜子村)の出身で、錫里吉思(馬慶祥)というのが最初に知られた祖先らしい。馬慶祥はその死後に恒州刺史という官職を贈られ、子孫は「馬」を氏とすることになる。曽祖父の月合乃は[[フビライ・ハーン]]にしたがって[[南宋]]に遠征、汴([[開封市]])に駐留し、[[礼部]][[尚書]]にまで出世する。 |
先祖は西域[[オングト]]部、[[アッシリア東方教会]]に属する[[色目人]]の子孫である。『元史』列伝・第三十によると、浄州天山(現在は[[内モンゴル自治区]] [[四子王旗]] 西北城卜子村)の出身で、錫里吉思(馬慶祥)というのが最初に知られた祖先らしい。馬慶祥はその死後に恒州刺史という官職を贈られ、子孫は「馬」を氏とすることになる。曽祖父の月合乃は[[フビライ・ハーン]]にしたがって[[南宋]]に遠征、汴([[開封市]])に駐留し、[[礼部]][[尚書]]にまで出世する。 |
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馬祖常は光州(現在の[[河南省]][[潢川県]])に生まれ、延祐年間 (1314年-1320年) に会試で第1位、廷試で第2位という優秀な成績で科挙に合格<ref>{{Cite book|和書|author=池内宏、他監修|year=1992|title=縮刷版 東洋歴史大辞典・下巻|publisher=臨川書店|pages=P.1203}}</ref>。元の仁宗([[アユルバルワダ]])に[[監察御史]]として仕えた。大ハーンが[[シデバラ]]に代わると、シデバラの腹心テムデルが権力をふるうようになり、その罪を批判した馬祖常は左遷される。テムデルの死後に中央にもどされて、参議中書省事や礼部尚書や江南行台中丞、[[御史中丞]]を歴任する。 |
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==著作== |
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2020年9月11日 (金) 21:30時点における版
馬祖常(ば そじょう、1279年-1338年)は、元代の漢詩人。字は伯庸。諡は文貞。
経歴
先祖は西域オングト部、アッシリア東方教会に属する色目人の子孫である。『元史』列伝・第三十によると、浄州天山(現在は内モンゴル自治区 四子王旗 西北城卜子村)の出身で、錫里吉思(馬慶祥)というのが最初に知られた祖先らしい。馬慶祥はその死後に恒州刺史という官職を贈られ、子孫は「馬」を氏とすることになる。曽祖父の月合乃はフビライ・ハーンにしたがって南宋に遠征、汴(開封市)に駐留し、礼部尚書にまで出世する。
馬祖常は光州(現在の河南省潢川県)に生まれ、延祐年間 (1314年-1320年) に会試で第1位、廷試で第2位という優秀な成績で科挙に合格[1]。元の仁宗(アユルバルワダ)に監察御史として仕えた。大ハーンがシデバラに代わると、シデバラの腹心テムデルが権力をふるうようになり、その罪を批判した馬祖常は左遷される。テムデルの死後に中央にもどされて、参議中書省事や礼部尚書や江南行台中丞、御史中丞を歴任する。
著作
元代の河南における文人たちの作品を集めた『中州名賢文表』に馬祖常の5巻がおさめられている。仁宗の命で、官吏のための法規集『風憲宏綱』に序文を書き、他に『英宗実録』『石田集』あり。その文章は前秦・漢代を模範とし、その詩は「圓密清麗」と評せられる[2]。