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中国政府は[[1978年]]経済体制の改革を決定すると同時に、対外開放政策も計画した。[[1980年]]から順次、[[広東省]]の[[深圳市|深圳]]、[[珠海市|珠海]]、[[汕頭市|汕頭]]、[[福建省]]の[[廈門市|アモイ]]及び[[海南省]]に5箇所の経済特区を設置した。[[1984年]]にはさらに[[大連市|大連]]、[[秦皇島市|秦皇島]]、[[天津市|天津]]、[[煙台市|煙台]]、[[青島市|青島]]、[[連雲港市|連雲港]]、[[南通市|南通]]、[[上海市|上海]]、[[寧波市|寧波]]、[[温州市|温州]]、[[福州市|福州]]、[[広州市|広州]]、[[湛江市|湛江]]、[[北海市|北海]]の14沿海都市を開放した。 |
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[[1990年]]、中国政府は[[上海市|上海]][[浦東新区]]の開発と開放を決定し、一連の長江沿岸都市の開放をさらに進め、[[浦東新区]]を竜頭とする長江開放地帯を形成した。[[1992年]]以降は辺境都市や内陸の全ての[[省都]]と自治区首府を開放した。さらに一連の年に15箇所の[[保税区]]、49箇所の国家級経済技術開発区と53箇所のハイテク産業開発区を設定している。 |
2020年9月11日 (金) 21:20時点における版
改革開放(かいかくかいほう、拼音: )とは、中華人民共和国の鄧小平の指導体制の下で、1978年12月に開催された中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議で提出、その後開始された中国国内体制の改革および対外開放政策のこと。
市場経済への移行期(1978年 - 1992年)
毛沢東時代の大躍進政策と文化大革命で疲弊した経済を立て直すため、現実派の鄧小平は「四つの近代化」を掲げ、市場経済体制への移行を試みる。基本原則は先富論に代表されるように、先に豊かになれる条件を整えたところから豊かになり、その影響で他が豊かになればよいという考え方である。
これはそれまでの教条主義(毛沢東思想)を切り離した象徴といえる。これに則り、農村部では人民公社が解体され、生産責任制、すなわち経営自主権を保障し、農民の生産意欲向上を目指した。都市部では外資の積極利用が奨励され、広東省の深圳、福建省のアモイなどに経済特区が、上海、天津、広州、大連などの沿岸部諸都市に経済技術開発区が設置される。華僑や先進国の資本を積極的に導入することで、資本確保や国外からの技術移転など成し遂げる一方、企業の経営自主権の拡大などの経済体制の改革が進んだ。
改革開放政策は、同時に中国社会に大きな矛盾を生み出した。農村部と都市部、沿岸部と内陸部における経済格差が拡大し、官僚の汚職や腐敗が一層深刻なものになった。インフレや失業も目立つようになり、政府に対する不満は高まっていった。1989年には天安門事件が発生、改革開放は一時中断することになる。
北京大学の張維迎教授は「最初の15年間は価格自由化に終始した」と分析している[1]。
社会主義市場経済(1992年 - )
1992年以降、再び改革開放が推し進められ、経済成長は一気に加速した。しかし、都市と農村、沿海部と内陸部の地域格差は深刻化し、とりわけ農民の不満が高まった。社会主義市場経済体制のもとで、江沢民・朱鎔基政権は格差是正と一層の経済改革に取り組むことになる。格差是正のための西部大開発、国営企業改革に伴う失業者の増大、民工潮、三農問題といった新たな問題も発生した。このような問題を抱えながらも、中国経済は「世界の工場」と呼ばれるまでに成長し、製造大国としてだけではなく、巨大な市場としても期待された。2001年には、悲願だったWTO加盟を果たす。
2002年から、胡錦涛党総書記政権が発足。2020年のGDPを、2000年の4倍にし(年平均7.2%成長)、中進国となる戦略を打ち出し、さらに全面的な「小康社会」を建設することを新たに目標に掲げた。「小康」とは、いくらかゆとりがあることを指す中国語で、ここでは、衣食がなんとか間に合う状態から、さらに生活が向上し、衣食が足りた状態に達することを指す。沿岸部だけでなく、内陸部の経済水準を引き上げることが狙いである。
2003年には全国人民代表大会(全人代)で温家宝が国務院総理(首相)に選出され、朱鎔基の経済改革を継承することとなった。2004年には、私有財産権保護を明記した憲法改定案が全人代で採択され、株式制度、企業統治制度など、国有企業の改革のための政策も打ち出されている。また、2007年の全人代では、私有財産の保護を明記した物権法、国内企業と外資企業の所得税率の格差を是正する企業所得税法が採択された[2][3]。2008年の北京オリンピックや2010年の上海万博開催も決定し、改革開放政策はより一層進展するものと思われる。
更に胡温体制政権は和諧社会という各階層間で調和の取れた社会の実現も目指している。
2013年に習近平が党総書記・国家主席に、李克強が国務院総理(首相)に就任して、現在に至っているが、格差が大きく拡がり、官僚の腐敗が頻発している。
開放政策
中国政府は1978年経済体制の改革を決定すると同時に、対外開放政策も計画した。1980年から順次、広東省の深圳、珠海、汕頭、福建省のアモイ及び海南省に5箇所の経済特区を設置した。1984年にはさらに大連、秦皇島、天津、煙台、青島、連雲港、南通、上海、寧波、温州、福州、広州、湛江、北海の14沿海都市を開放した。
1985年以降、長江デルタ、珠江デルタ、閩南トライアングル(アモイ・泉州・漳州)、山東半島、遼東半島、河北省、広西チワン族自治区を経済開放区として沿海経済開放地帯を形成した。
1990年、中国政府は上海浦東新区の開発と開放を決定し、一連の長江沿岸都市の開放をさらに進め、浦東新区を竜頭とする長江開放地帯を形成した。1992年以降は辺境都市や内陸の全ての省都と自治区首府を開放した。さらに一連の年に15箇所の保税区、49箇所の国家級経済技術開発区と53箇所のハイテク産業開発区を設定している。
このように中国は沿海、沿江、沿辺、内陸地区を結合して全方位、多次元、広領域の対外開放構造を形成している。対外開放地区ではさまざまな優遇政策を実施し外向型の経済、輸出拡大、先進技術導入などの面で大きな役割を果たしている。
影響
中国の経済改革とそれに伴う経済発展は一部の他の社会主義国にも影響を与え、ベトナムでは1986年から親中派のチュオン・チンとファム・ヴァン・ドンとグエン・ヴァン・リンが中越関係改善とともに改革開放と類似したドイモイと社会主義志向の市場経済を推進することとなった[4][5]。
1991年に社会主義経済を中国と同様に漸進的に改革して外国直接投資を受け入れて中国に次ぐ高成長を遂げたインドのナラシンハ・ラーオは鄧小平の影響を受けており[6]、経済改革の旗振り役だったマンモハン・シンとともに「インドの鄧小平」と呼ばれた[7]。
北朝鮮でも、1991年に金日成が生涯最後の外遊先である中国を訪問した際に、鄧小平から改革開放を迫られて帰国後の会議で羅津・先鋒経済貿易地帯の設置を決定している[8]。また1993年12月に行われた朝鮮労働党中央委員会総会では、1994年から1996年を経済再建のための調整期間とすることとし、農業、軽工業、貿易の発展を中心に据えた経済政策を進めることが決定された[9]。金日成は1980年代より中国式の改革開放を後継者である金正日に学ばせようとしたが、意見の相違から上手くいかなかった。そこで金日成が1990年代より自ら陣頭指揮を執って改革開放を試みたが、1994年に志半ばで病死する。後を継いだ金正日は自己保身を優先して苦難の行軍を引き起こして経済を低迷させ、改革開放は挫折した[10]。これは他の記録でも裏付けられている[11][12]。
脚注
- ^ ヒト・モノ・カネで中国経済成長を総括すると(JBpress 2009年5月7日)
- ^ 中華人民共和国物権法(人民日報HPより中国語版)
- ^ 読売新聞HP
- ^ Jonathan London, Vietnam and the making of market-Leninism, Pacific Review, Vol 22, No 3, pp 375–399. 2009
- ^ Cling, Jean-Pierre; Razafindrakoto, Mireille; Roubaud, Francois (Spring 2013). "Is the World Bank compatible with the "Socialist-oriented market economy"?".
- ^ “Reassessing India's 'forgotten prime minister'”. BBC (2016年7月25日). 2019年5月22日閲覧。
- ^ "Manmohan is Deng Xiaoping of India: P Chidambaram – Oneindia News". News.oneindia.in. 2 May 2008.
- ^ 五味洋治『中国は北朝鮮を止められるか 中朝愛憎の60年を追う』159頁 2010年6月 晩聲社 ISBN 978-4891883485
- ^ 田中 (2006) p.55、朴在勲 (2009) p.49、朴在勲 (2010) pp.27-28
- ^ 久保田るり子『金正日を告発する 黄長燁が語る朝鮮半島の実相』162頁、2008年
- ^ “【秘録金正日(47)】中国の改革解放を「共産主義捨てた」と一蹴 トウ小平は「なんてばかなやつだ」と激怒”. 産経新聞. (2015年10月23日) 2016年9月16日閲覧。
- ^ 五味洋治『中国は北朝鮮を止められるか: 中朝愛憎の60年を追う』第5章158頁、2010年