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==生涯==
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兄の呉良と共に早くから朱元璋に仕えた。[[1353年]]、定遠攻略に参加した24将の1人。[[ジョ州市|滁州]]及び[[和県|和州]]を相次いで攻略し、[[南京市|集慶]]を陥落させた。[[鎮江市|鎮江]]、[[広徳市|広徳]]、[[常州市|常州]]、[[宣城市|宣城]]、[[江陰市|江陰]]での戦いで功績をあげた。[[常遇春]]の下で、[[銅陵県|銅陵]]及び[[池州市|池州]]を攻略した。天興翼副元帥に任じられ、1千人を率いて、呉良が守る江陰に屯した。防御を固め、兵を良く指揮して、[[張士誠]]による度々の攻撃を防いだ。張士誠の将・蘇同が江陰に攻めてきた。呉禎は北門から出撃し、王子明が南門から出撃して挟み撃ちによって敵を大破した。その功により、英武衛親軍指揮使に任じられた。その後、[[徐達]]の下で、[[湖州市|湖州]]を平定した。大都督府事に進み、平江を鎮撫した。
兄の呉良と共に早くから朱元璋に仕えた。[[1353年]]、定遠攻略に参加した24将の1人。[[州市|滁州]]及び[[和県|和州]]を相次いで攻略し、[[南京市|集慶]]を陥落させた。[[鎮江市|鎮江]]、[[広徳市|広徳]]、[[常州市|常州]]、[[宣城市|宣城]]、[[江陰市|江陰]]での戦いで功績をあげた。[[常遇春]]の下で、[[銅陵県|銅陵]]及び[[池州市|池州]]を攻略した。天興翼副元帥に任じられ、1千人を率いて、呉良が守る江陰に屯した。防御を固め、兵を良く指揮して、[[張士誠]]による度々の攻撃を防いだ。張士誠の将・蘇同が江陰に攻めてきた。呉禎は北門から出撃し、王子明が南門から出撃して挟み撃ちによって敵を大破した。その功により、英武衛親軍指揮使に任じられた。その後、[[徐達]]の下で、[[湖州市|湖州]]を平定した。大都督府事に進み、平江を鎮撫した。


[[1367年]]10月、[[湯和]]の下で、[[方国珍]]を攻撃した。呉禎は船を使い、方国珍軍に奇襲をかけた。不意を衝かれた方国珍は海上へ逃亡した。呉禎はこれを追い、逃げられぬと悟った方国珍は投降した。その後、海路から[[福州市|福州]]を攻撃した。[[洪武]]元年([[1368年]])、[[延平区|延平]]を攻撃し、[[陳友定]]を捕らえた。左相兼金大都督府事に任じられた。洪武3年([[1370年]])、[[臨沂市|沂州]]の山賊を討伐し、靖海将軍に任じられて海上を防備した。同年、靖海侯となり、食禄1千5百石を与えられる。
[[1367年]]10月、[[湯和]]の下で、[[方国珍]]を攻撃した。呉禎は船を使い、方国珍軍に奇襲をかけた。不意を衝かれた方国珍は海上へ逃亡した。呉禎はこれを追い、逃げられぬと悟った方国珍は投降した。その後、海路から[[福州市|福州]]を攻撃した。[[洪武]]元年([[1368年]])、[[延平区|延平]]を攻撃し、[[陳友定]]を捕らえた。左相兼金大都督府事に任じられた。洪武3年([[1370年]])、[[臨沂市|沂州]]の山賊を討伐し、靖海将軍に任じられて海上を防備した。同年、靖海侯となり、食禄1千5百石を与えられる。

2020年9月11日 (金) 21:13時点における版

呉 禎(ご てい、? - 1379年)は、初の軍人。初名は国宝であったが、後に楨の名を賜る。定遠(現在の安徽省定遠県)の人。朱元璋に仕え、明建国の功臣となった。兄の呉良も朱元璋に仕え、明建国の功臣となった。

生涯

兄の呉良と共に早くから朱元璋に仕えた。1353年、定遠攻略に参加した24将の1人。滁州及び和州を相次いで攻略し、集慶を陥落させた。鎮江広徳常州宣城江陰での戦いで功績をあげた。常遇春の下で、銅陵及び池州を攻略した。天興翼副元帥に任じられ、1千人を率いて、呉良が守る江陰に屯した。防御を固め、兵を良く指揮して、張士誠による度々の攻撃を防いだ。張士誠の将・蘇同が江陰に攻めてきた。呉禎は北門から出撃し、王子明が南門から出撃して挟み撃ちによって敵を大破した。その功により、英武衛親軍指揮使に任じられた。その後、徐達の下で、湖州を平定した。大都督府事に進み、平江を鎮撫した。

1367年10月、湯和の下で、方国珍を攻撃した。呉禎は船を使い、方国珍軍に奇襲をかけた。不意を衝かれた方国珍は海上へ逃亡した。呉禎はこれを追い、逃げられぬと悟った方国珍は投降した。その後、海路から福州を攻撃した。洪武元年(1368年)、延平を攻撃し、陳友定を捕らえた。左相兼金大都督府事に任じられた。洪武3年(1370年)、沂州の山賊を討伐し、靖海将軍に任じられて海上を防備した。同年、靖海侯となり、食禄1千5百石を与えられる。

仇成遼陽を守ることになり、呉禎は数万の水軍を率いて、山東、登州からの物資を遼陽に送った。呉禎の水軍により、海路の安全が保たれたので、遼陽地域は物資に不足することはなかった。そして、遼河の東部を攻略することができた。洪武7年(1376年)、倭寇が侵攻したとの知らせがあり、呉禎は水軍を率いて、倭寇と戦った。琉球の近くまで追いかけ、倭寇を捕獲することに成功する。これ以後、呉禎の在任期間中に倭寇が侵攻することはなかった。

洪武11年(1378年)、遼東へ出征するが、病を得て南京へ帰還する。翌年、洪武12年(1379年)、死去。海国公に封ぜられ、襄毅と諡された。呉良と共に、功臣廟に肖像が奉られた。

関連項目

参考文献

  • 『明史』 巻131 列伝第20