「平安 (明)」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
Chicchiki cheese (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
タグ: 手動差し戻し |
||
2行目: | 2行目: | ||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
{{Lang|zh|滁}}(現在の[[安徽省]][[ |
{{Lang|zh|滁}}(現在の[[安徽省]][[滁州市]])の出身。父の平定は、[[常遇春]]の配下として[[大都]]攻略戦に従軍した際に戦死した。[[朱元璋|洪武帝]]は息子の平安を引き取って養子とし、父の職を継がせて密雲指揮使・右軍都督僉事に任命した。 |
||
[[1399年]]から[[建文帝]]とその叔父である燕王の[[永楽帝|朱棣]]による内乱([[靖難の変]])が起こると、平安は[[李景隆]]率いる官軍の中核を成す将軍として活躍する。[[大清河|白溝河]]を渡河しようとする燕軍を迎え撃つとき、朱棣は最初彼を侮っていたが思いのほか苦戦させられ、進軍を阻まれた。翌日の再戦において朱棣は手痛い敗戦を喫するが、このとき官軍で最も活躍したのが平安だった。燕軍の房寬と陳亨を破り、彼の槍は朱棣の体を数度捉えるほどだったが、伏兵を恐れた李景隆の命で敵中に深入りすることなく退却した。一方、3度も馬を乗り換え、剣も折れた朱棣は、次男の[[朱高煦|高煦]]に救われてかろうじて窮地を脱したのである。 |
[[1399年]]から[[建文帝]]とその叔父である燕王の[[永楽帝|朱棣]]による内乱([[靖難の変]])が起こると、平安は[[李景隆]]率いる官軍の中核を成す将軍として活躍する。[[大清河|白溝河]]を渡河しようとする燕軍を迎え撃つとき、朱棣は最初彼を侮っていたが思いのほか苦戦させられ、進軍を阻まれた。翌日の再戦において朱棣は手痛い敗戦を喫するが、このとき官軍で最も活躍したのが平安だった。燕軍の房寬と陳亨を破り、彼の槍は朱棣の体を数度捉えるほどだったが、伏兵を恐れた李景隆の命で敵中に深入りすることなく退却した。一方、3度も馬を乗り換え、剣も折れた朱棣は、次男の[[朱高煦|高煦]]に救われてかろうじて窮地を脱したのである。 |
2020年9月11日 (金) 21:12時点における版
平安(へいあん、? - 1409年)は、中国の明代の将軍。幼名は保児。
生涯
滁(現在の安徽省滁州市)の出身。父の平定は、常遇春の配下として大都攻略戦に従軍した際に戦死した。洪武帝は息子の平安を引き取って養子とし、父の職を継がせて密雲指揮使・右軍都督僉事に任命した。
1399年から建文帝とその叔父である燕王の朱棣による内乱(靖難の変)が起こると、平安は李景隆率いる官軍の中核を成す将軍として活躍する。白溝河を渡河しようとする燕軍を迎え撃つとき、朱棣は最初彼を侮っていたが思いのほか苦戦させられ、進軍を阻まれた。翌日の再戦において朱棣は手痛い敗戦を喫するが、このとき官軍で最も活躍したのが平安だった。燕軍の房寬と陳亨を破り、彼の槍は朱棣の体を数度捉えるほどだったが、伏兵を恐れた李景隆の命で敵中に深入りすることなく退却した。一方、3度も馬を乗り換え、剣も折れた朱棣は、次男の高煦に救われてかろうじて窮地を脱したのである。
しかし、次第に燕軍の前に劣勢に立たされるようになり、単家橋では盛庸と共同して燕軍にあたり善戦するが、突如起こった強風が燕軍に味方する結果となり敗れる。1402年、宿州で燕軍と戦い、燕軍の勇将である王真を討ったが、戦況を変えるには至らず、霊璧の戦いで燕軍に敗れて他の将とともに捕縛された。捕縛された際、諸将は平安捕縛の報告に安堵するとともに処刑を進言したが、朱棣は彼の武勇を惜しんで助命し、即位後に北平都指揮使に任じた。1409年3月、章奏の中に平安の名前を見つけた永楽帝は「平保児はまだいたのか」と側の人間に言った。この永楽帝の発言を聞いた平安は自殺した[1]。
脚注
- ^ 『明史』では永楽帝の発言の意図、平安の自殺の理由のいずれにも言及されていない。
参考文献
- 『明史』巻144、列伝第32、平安