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[[北周]]朝からの名門の家に生まれ、若い頃は[[太学]]に学んだ。[[玄宗 (唐)|玄宗]]に近衛士官(三衛郎)として仕えた。玄宗のおぼえはめでたかったものの、強気なところがあった。[[安史の乱]]の後、職を失ったため故郷に帰って貧窮した。そこで心を入れ替えて勉学に励んだ。その後、下級の地方官を転々とした。 |
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[[洛陽]]県丞のとき軍兵が不正をはたらくのを厳しく取り締まった。それからは病気を理由に辞任したり[[滁州]][[刺史]]になったりと、官途に就いたり辞めたりを繰り返した。[[786年]]には[[呉州 (江蘇省)|蘇州]]刺史になった。そして[[白居易]]が赴任してくると引退し、寺院に寓居した。 |
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その最期は判然としないが、[[大和 (唐)|大和]]年間(827年 - 835年)まで生存していて、[[劉禹錫]]によって官に推薦されたというが確証はない。 |
2020年9月11日 (金) 21:08時点における版
韋 応物(い おうぶつ、736年 - 791年?)は、中国・唐(中唐)の詩人。京兆府杜陵県の出身。玄祖父は韋沖。高祖父は韋挺。曾祖父は則天武后の時代の宰相の韋待価。祖父は韋令儀。父は韋鑾。
略歴
北周朝からの名門の家に生まれ、若い頃は太学に学んだ。玄宗に近衛士官(三衛郎)として仕えた。玄宗のおぼえはめでたかったものの、強気なところがあった。安史の乱の後、職を失ったため故郷に帰って貧窮した。そこで心を入れ替えて勉学に励んだ。その後、下級の地方官を転々とした。
洛陽県丞のとき軍兵が不正をはたらくのを厳しく取り締まった。それからは病気を理由に辞任したり滁州刺史になったりと、官途に就いたり辞めたりを繰り返した。786年には蘇州刺史になった。そして白居易が赴任してくると引退し、寺院に寓居した。
その最期は判然としないが、大和年間(827年 - 835年)まで生存していて、劉禹錫によって官に推薦されたというが確証はない。
自然を詠う詩に巧みで、とくに自然の静けさや穏やかさを主題とする物に秀でている。盛唐の孟浩然や王維を受け継ぐとされ、柳宗元も一括して“王孟韋柳”と並称される。『韋蘇州集』10巻が伝わる。
作品には『幽居』(五言古詩)、『聞雁(雁を聞く)』(五言絶句)等がある。
聞雁 | |
故園眇何處 | 故園(こえん) 眇(びょう)として 何処(いずくぞ) |
歸思方悠哉 | 帰思(きし) 方(まさ)に悠なる哉(かな) |
淮南秋雨夜 | 淮南(わいなん) 秋雨の夜(よ) |
高斎聞雁来 | 高斎(こうさい) 雁の来(きた)るを聞く |