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王延鈞は[[935年]]に長男の[[王継鵬]](王昶)によって殺され、王継鵬(王昶)が帝位に就く。[[937年]]、王継鵬(王昶)は後唐を倒した[[後晋]]に再び称臣して閩王に戻った。王継鵬(王昶)は[[道教]]を狂信し、巫女の言葉を信じて一族を殺し始めたので、[[939年]]に将軍の[[クーデター]]によって殺され、王審知の子の[[王延羲]]が擁立された。しかし王延羲も暴政を行い、恨みのある一族を殺して回った。[[943年]]、これに対して王延羲の弟・[[王延政]]は任地の[[建州]]で自立して皇帝となり、[[殷 (王延政)|殷]]と称した。
王延鈞は[[935年]]に長男の[[王継鵬]](王昶)によって殺され、王継鵬(王昶)が帝位に就く。[[937年]]、王継鵬(王昶)は後唐を倒した[[後晋]]に再び称臣して閩王に戻った。王継鵬(王昶)は[[道教]]を狂信し、巫女の言葉を信じて一族を殺し始めたので、[[939年]]に将軍の[[クーデター]]によって殺され、王審知の子の[[王延羲]]が擁立された。しかし王延羲も暴政を行い、恨みのある一族を殺して回った。[[943年]]、これに対して王延羲の弟・[[王延政]]は任地の[[建州]]で自立して皇帝となり、[[殷 (王延政)|殷]]と称した。


翌年に王延羲は配下により殺され、王延政が閩王の地位を継いだが、この混乱を見た一族の[[王継勲 (ビン)|王継勲]](王審知の兄の王審邽の子の王延禎の子)と[[王継成]](王延政の子)がそれぞれ自立し、国内は分裂状態となった。この状況を見た[[南唐]]の[[李ケイ (南唐)|李璟]]により攻め滅ぼされて、王延政ら王族は南唐の首都[[建康 (都城)|金陵]]へと連れ去られ、その地で天寿を全うした。
翌年に王延羲は配下により殺され、王延政が閩王の地位を継いだが、この混乱を見た一族の[[王継勲 (ビン)|王継勲]](王審知の兄の王審邽の子の王延禎の子)と[[王継成]](王延政の子)がそれぞれ自立し、国内は分裂状態となった。この状況を見た[[南唐]]の[[李璟]]により攻め滅ぼされて、王延政ら王族は南唐の首都[[建康 (都城)|金陵]]へと連れ去られ、その地で天寿を全うした。


==文化==
==文化==

2020年9月6日 (日) 04:27時点における版

唐 909年 - 945年 南唐
閩の位置
917年の閩(黄色)
公用語 漢語(中国語
首都 長楽府(福州
(933年より皇帝を称する)
909年 - 925年 太祖
925年 - 926年嗣王
926年 - 935年恵宗
935年 - 939年康宗
939年 - 944年景宗
943年 - 945年王延政
変遷
後梁より封ぜられる 909年
皇帝を称する933年
南唐によって滅亡945年
後唐代の閩(濃緑)
後晋後漢代の閩(濃緑)。図中では滅亡時の様子も示されている。王延政の拠った建州・汀州は南唐へ、福州は呉越に奪われ、漳州・泉州は南唐からの清源軍節度使が置かれた。

(びん、909年 - 945年)は、中国五代十国時代に現在の福建省を中心に存在した国。十国の一つ。

歴史

統治者それぞれの読み、生没年、在位年については後述の#閩の統治者一覧を参照。

開祖の王審知光州固始県(現在の河南省信陽市固始県)の人。兄の王潮と共に末の混乱の中で中央の混乱を避けて、福建へと移住し、この地を占領した。896年に王潮は唐より威武軍節度使に追認され、翌年に王潮が死ぬと王審知が地位を受け継いだ。

907年朱全忠が唐から禅譲を受けて後梁を立てると、後梁に入朝して閩王に封ぜられた。

王審知は内政に力を入れ、当時はまったくの後進地であった福建の開発を進めて、大きく発展させた。また南海交易で利益を上げ、文人・名僧などを集め、文化を奨励した。このような善政により王審知は開閩王と称えられ、福州には閩王徳政碑(びんおうとくせいひ)が立てられており、現在でも訪問者は絶えない。

しかし925年に王審知が死んだ後は内紛が続く。まず翌年に王審知の長男の王延翰が位に就くが、弟の王延鈞に殺され、そのまま王延鈞が位に就く。閩は後梁を倒した後唐に対して引き続いて称臣していたが、後唐の明宗李嗣源が病に倒れ、後唐が混乱しているのに乗じて、933年に独立して皇帝を名乗った。

王延鈞は935年に長男の王継鵬(王昶)によって殺され、王継鵬(王昶)が帝位に就く。937年、王継鵬(王昶)は後唐を倒した後晋に再び称臣して閩王に戻った。王継鵬(王昶)は道教を狂信し、巫女の言葉を信じて一族を殺し始めたので、939年に将軍のクーデターによって殺され、王審知の子の王延羲が擁立された。しかし王延羲も暴政を行い、恨みのある一族を殺して回った。943年、これに対して王延羲の弟・王延政は任地の建州で自立して皇帝となり、と称した。

翌年に王延羲は配下により殺され、王延政が閩王の地位を継いだが、この混乱を見た一族の王継勲(王審知の兄の王審邽の子の王延禎の子)と王継成(王延政の子)がそれぞれ自立し、国内は分裂状態となった。この状況を見た南唐李璟により攻め滅ぼされて、王延政ら王族は南唐の首都金陵へと連れ去られ、その地で天寿を全うした。

文化

前述した王審知の文化振興により、建てられた建物で現存するものも少なくない。

  • 開元寺鉄仏 - 福州にある開元寺の中の高さ5.3メートルの鉄仏。王審知の建立といわれる。
  • 閩王祠 - 前述の閩王徳政碑が中にある。
  • 涌泉寺(ゆせんじ) - 福州の東南の鼓山の中腹にある寺。908年に王審知によって創建。
  • 開元寺 - 泉州にある寺(上記とは別)。この中の塔の一つが王審知によるもの。

閩の統治者一覧

  1. 王潮(おうちょう ? - 897年 在位896年 - 897年)
  2. 太祖 昭武孝皇帝・王審知(おうしんち 862年 - 925年 在位897年 - 925年)
  3. 嗣王・王延翰(おうえんかん ? - 926年 在位925年 - 926年)
  4. 恵宗 斉粛明孝皇帝・王延鈞(おうえんきん ? - 935年 在位926年 - 935年)
  5. 康宗 聖神英睿文明広武応道大弘孝皇帝・王継鵬(おうけいほう ? - 939年 在位935年 - 939年)
  6. 景宗 睿文広武明聖元徳大孝皇帝・王延羲(おうえんぎ ? - 944年 在位939年 - 944年)
  7. 王延政(おうえんせい ? - 951年 在位943年 - 945年

参考文献

脚注

外部リンク