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ISILによる破壊: 『ハレド・アサド』の表記揺れを統一
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紀元前1世紀から3世紀までは、[[シルクロード]]の中継都市として発展。交易の関税により都市国家として繁栄。ローマの[[属州]]となったこともある。2世紀に[[ペトラ]]がローマに吸収されると、通商権を引き継ぎ絶頂期に至った。この時期、パルミラにはローマ建築が立ち並び、[[アラブ人]]の市民は、東のペルシャ([[パルティア]])式と西の[[古代ギリシア|ギリシャ]]・ローマ式の習慣や服装を同時に受容していた。
紀元前1世紀から3世紀までは、[[シルクロード]]の中継都市として発展。交易の関税により都市国家として繁栄。ローマの[[属州]]となったこともある。2世紀に[[ペトラ]]がローマに吸収されると、通商権を引き継ぎ絶頂期に至った。この時期、パルミラにはローマ建築が立ち並び、[[アラブ人]]の市民は、東のペルシャ([[パルティア]])式と西の[[古代ギリシア|ギリシャ]]・ローマ式の習慣や服装を同時に受容していた。


「[[軍人皇帝]]時代」に[[パルミラ国]]が成立し、270年頃に君臨した[[ゼノビア]]の時代には[[エジプト]]の一部も支配下に置いていた。しかし、ローマ皇帝[[ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス]]は、当時分裂状態にあった帝国の再統一を目指してパルミラ攻撃を開始。[[273年]]にパルミラは陥落し、廃墟と化した。
「[[軍人皇帝]]時代」に[[パルミラ国]]が成立し、270年頃に君臨した[[ゼノビア]]の時代には[[エジプト]]の一部も支配下に置いていた。しかし、ローマ皇帝[[ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス]]は、当時分裂状態にあった帝国の再統一を目指してパルミラ攻撃を開始。[[273年]]にパルミラは陥落し、廃墟と化した。


この後パルミラは衰え、[[東ローマ帝国]]や[[イスラム帝国]]の支配下にあった時代は街の大半が廃墟のままであった。中世には完全に放棄されたが、現在では遺跡と同じ名のタドモル(タドムル)という新しい町がすぐ横に建設されている。
この後パルミラは衰え、[[東ローマ帝国]]や[[イスラム帝国]]の支配下にあった時代は街の大半が廃墟のままであった。中世には完全に放棄されたが、現在では遺跡と同じ名のタドモル(タドムル)という新しい町がすぐ横に建設されている。
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=== パルミラ王国 ===
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2020年9月5日 (土) 00:25時点における版

世界遺産 パルミラ遺跡
シリア
四面門
四面門
英名 Site of Palmyra
仏名 Site de Palmyre
登録区分 文化遺産
登録基準 (1), (2), (4)
登録年 1980年
危機遺産 2013年 -
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
パルミラの位置
使用方法表示
パルミラの神々。左から、月の神アグリボル(Aglibôl)、最高神バアル・シャミン(バアルシャメン、Beelshamên)、太陽神マラクベル(Malakbêl)。1世紀ごろの浮彫、シリアの Bir Wereb, Wadi Miyah 付近で発見、ルーヴル美術館所蔵。

パルミラ英語: Palmyra)は、シリア中央部のホムス県タドモル(タドムル、アラビア語: تدمر ‎、アルファベット転写:Tadmor)にあるローマ帝国支配時の都市遺跡。シリアを代表する遺跡の1つである。1980年、ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。21世紀初頭までローマ様式の建造物が多数残っており、ローマ式の円形劇場や、浴場、四面門が代表的であったが、シリア内戦で破壊を受けた(後述)。ラテン語読みによるパルミュラとも呼ばれる。

概要

パルミラの遺跡は、シリアの首都ダマスカスの北東、約215kmのシリア砂漠の中にある。ユーフラテス川流域からは南西へ約120km。海抜は400mで[1]、シリア中央部を北東方向へ伸びる山脈(Jabal Abu Rujmayn)の南麓に位置する。北から流れるワジアブオベイド川と、西から流れるワジアイド川が形成した扇状地にあるオアシスに建設されていた。

パルミラのある東西方向の谷間は、地中海沿岸のシリアやフェニキアと、東のメソポタミアペルシアを結ぶ交易路となっており、パルミラはシリア砂漠を横断するキャラバンにとって非常に重要な中継点であった。

紀元前3世紀頃から多数の地下墓地が建設され、当時からアラム語で現在のアラビア語名と同じく「タドモル」 תדמר (Tadmor) と呼ばれていた。ナツメヤシの産地として知られたオアシス都市であり、アラム語やヘブライ語など北西セム語ではナツメヤシの実のことを תמר (tamar) といい、都市名はナツメヤシと関係があるともされる[2]ギリシア語でナツメヤシのことを「パルマ」ということから、ギリシア人ローマ人から「パルミラ」と呼ばれたようである。しかしこれとは別に、「タドモル」の語源は、「ダマール(破壊)」や、「タトモル(覆う、包む)」に関連するともいわれ、また、古代西セム語語根である「ダムル(保護する)」から「守備隊駐屯地」によるともいわれる[2]

紀元前1世紀から3世紀までは、シルクロードの中継都市として発展。交易の関税により都市国家として繁栄。ローマの属州となったこともある。2世紀にペトラがローマに吸収されると、通商権を引き継ぎ絶頂期に至った。この時期、パルミラにはローマ建築が立ち並び、アラブ人の市民は、東のペルシャ(パルティア)式と西のギリシャ・ローマ式の習慣や服装を同時に受容していた。

軍人皇帝時代」にパルミラ帝国が成立し、270年頃に君臨したゼノビアの時代にはエジプトの一部も支配下に置いていた。しかし、ローマ皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスは、当時分裂状態にあった帝国の再統一を目指してパルミラ攻撃を開始。273年にパルミラは陥落し、廃墟と化した。

この後パルミラは衰え、東ローマ帝国イスラム帝国の支配下にあった時代は街の大半が廃墟のままであった。中世には完全に放棄されたが、現在では遺跡と同じ名のタドモル(タドムル)という新しい町がすぐ横に建設されている。

歴史

パルミラの近くからは、約7万5000年前の旧石器時代石器が発見されている[2]。ユーフラテス河畔のマリ遺跡で発掘された紀元前2000年代頃の粘土板からも、この都市の名前(Tadmor、または Tadmur、または Tudmur)と思われる記述が見つかっている[1]

旧約聖書の『歴代誌第二』8章4節では、古代イスラエルの国王ソロモンが荒れ野に「タドモル」の街を築いたと記されている[3]。『列王記第一』の9章18節でも、ソロモンが築いた街や基地の中に「תמר」(タモル Tamor またはタマル Tamar)の名がみられるが、伝統的にこの部分は「タドモル」と読むことになっており、タルムードミドラーシュの冊子にある注釈のいくつかでは、この街をシリア砂漠にあると記している。フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』第8巻においても、タドモルはソロモンが創建したと書かれ、ギリシア語のパルミラの名も併記されている。現代ヘブライ語においてもパルミラはタドモルと呼ばれる。

タドモル(パルミラ)の人々はアラブ人であったが、アラム語の方言(パルミラ語)を話し、アラム文字を手直しした独自の文字(パルミラ文字)を用いていた。パルミラ文字は今も遺跡の各所に残る。

セレウコス朝からローマ時代

アケメネス朝ペルシャから覇権を奪い取ったマケドニア王国アレクサンドロス大王紀元前323年に没すると、ディアドコイ戦争と呼ばれる後継者争いが勃発した。セレウコス朝がシリアを奪った際[要出典]、パルミラの街は自治に委ねられ、後には独立した。紀元前1世紀にはパルティア共和政ローマの間の緩衝国として独立を維持し、キャラバンの中継地として繁栄を謳歌した。紀元前41年にローマの将軍マルクス・アントニウスがパルミラを征服しようとしたが、パルミラ人はローマ軍接近の情報を得てユーフラテス川の対岸方面に逃げたため失敗した。これは当時、まだパルミラが貴重品をすぐに持って逃げられるような、遊牧民の宿営ほどの規模であったことを示す。一方、当時のパルミラ商人はイタリア海域に船を所有し、インド産のの貿易を支配していたとされる[4]

皇帝ティベリウス(在位14 - 37年)の時代、パルミラはローマ帝国のシリア属州の一部となった[5]106年に南にあるペトラを都とするナバテア王国がローマに征服されるとその通商権はパルミラに移り、ローマ帝国と東方のペルシア、インド、中国とを結ぶ重要性はこの時期増していった[6]129年、ローマの拡大路線を転換した皇帝ハドリアヌスは視察巡幸の途中にパルミラを訪れた。その魅力にとりこにされたハドリアヌスはパルミラに自由都市の資格を与え、パルミラ・ハドリアナ(Palmyra Hadriana, ハドリアナパルミラ〈ハドリアヌスのパルミラの意〉[6])と改名した。

パルミラ王国

212年サーサーン朝(ペルシア)が衰退するパルティアを圧迫し、チグリス川およびユーフラテス川の河口を占領すると、パルミラ経由の通商は途絶えがちになった。パルミラの長官セプティミウス・ヘロドの息子、セプティミウス・オダエナトゥスは皇帝ウァレリアヌス(在位253 - 260年[7])からシリア属州総督に任命された。260年にウァレリアヌス帝がサーサーン朝との戦いで捕らえられ[8]、虜囚となったままビシャプールで死ぬと、オダエナトゥスは復讐としてペルシア領内に遠征し、クテシフォンにも2度侵攻した。オダエナトゥスは内憂外患に悩まされるローマの東の守りを任され、その本拠パルミラはローマから半独立状態にあったが、267年にオダエナトゥスが甥に殺されると、妻ゼノビアが息子ウァバッラトゥスを擁立してパルミラの実権を握った。ゼノビアは哲学者カッシウス・ロンギヌス(en)を顧問に迎え、アラビア・ペトラエアの州都ボスラを征服し、さらにはアエギュプトゥス(エジプト属州)へも遠征して領土を拡大した。

北にある大都市アンティオキアも奪おうとしていたゼノビアは、273年に皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス(在位270 - 275年)の親征を受けて敗北し、捕らえられローマに送られた。虜囚となったゼノビアはローマ近郊のティヴォリに邸宅を持つことを許されて華やかな余生を送ったが、パルミラの街は破壊され、ロンギヌスらパルミラ政府の高官は殺された。

ローマ帝国は以後、パルミラをローマ軍団の基地に変えてしまった。ディオクレティアヌス帝の時代には、ペルシアの侵攻に備えてさらに多くの部隊が駐留できるよう規模が拡大され、城壁で囲まれた。

アラブ砦から見下ろしたパルミラ遺跡。列柱道路の先、オアシスの手前に大きなベル神殿がある。
パルミラ遺跡の隣にある、現代のタドモルの街

ローマ以後

東ローマ帝国の時代、パルミラに新たに建設されたのはいくらかのキリスト教会のみで、市街の大半は廃墟のまま放置されていた。6世紀、遺跡とオアシスを見下ろす丘の上に砦が建設されている。634年、最初のムスリム(イスラム教徒)がパルミラにたどり着き、次いで636年ハーリド・イブン=アル=ワリード率いるイスラム帝国正統カリフ軍がパルミラを占領し、アラブ人イスラム教徒が支配する町となった。800年ごろから数少ない住民もパルミラを去り始め、1089年の大地震で被害を受けた後は完全に放棄された[9]カトリック教会は現在も、パルミラに名義司教を残している[10]

1751年イギリスの探検隊がパルミラ遺跡を訪れ、1753年にはその報告書を出版した。これはローマ建築の研究およびその後のヨーロッパの古典主義建築の発展に大きな影響を与えた。

シリア共和国の独立後はホムス県に属し、タドモルの街が遺跡の隣にある。

ISILによる破壊

シリア内戦下の2015年5月21日カリフ制によるイスラム過激派組織ISIL (ISIS)シリア軍を撃破して市街地を制圧、遺跡も同組織の支配下に置かれた[11]。その際、遺跡の保護に携わっていた専門家ハレド・アサドを斬首し、8月にはバール・シャミン、ベル両神殿を相次いで破壊した。ハレド・アサドは、遺跡に眠ると噂されていた金塊捜索への協力を拒否したため殺害された[12]2015年10月4日にはシリアの文化財保護当局が、地元の目撃者らの話として凱旋門が爆破されたことを伝えた[13][14]

ロシア空軍による航空支援を得てシリア軍が交戦していたが、2016年3月27日、シリア国営テレビは、ISILからパルミラ全域を奪還したと報じた[15][16][17]

シリア側は、「5年以内の修復が可能」との見解を示したが、ユネスコ側は「虚偽の報道で修復は不可能」と反論し、修復支援を全面拒否する意向を示した。

2016年12月11日、パルミラはISILに再び制圧された[18]

2017年3月2日、シリア国営テレビは、シリア軍がISILから再びパルミラ全域を奪還したと発表した[19]

その後、ハレド・アサドの三男(元パルミラ博物館職員)やシリア政府の文化財・博物館局が、日本人考古学者などの協力を得ながら遺跡修復を図っている[12]

主な建築物

ベル神殿(本殿)。ベル神を祀っていた。

ベル神殿

パルミラで最も目を引く建築物は、「中東において紀元前1世紀の最も重要な宗教的建造物」とされるバアル(ベル)の大神殿である[20]。石材の断片だけが残存する神殿は、ヘレニズムの神殿として始まる。中央の聖堂(内陣)は、コリント様式の巨大な二重列柱廊に続き、紀元1世紀初頭に追加された。西のポルチコ(柱廊)とその入口(プロピュライア)は2世紀からである。神殿は205 × 210メートルにおよぶ[21]

パルミラの列柱道路。ローマの植民都市や軍営の都市計画で、東西に貫く通りはデクマヌスと呼ばれたが、中でも最も主となる大通り(都市軸)はデクマヌス・マクシムスと呼ばれた。
ディオクレティアヌス城砦(手前の列柱)。奥の山の上にあるのは、マムルーク朝が13世紀に建て、17世紀にドルーズ派のマアーン家の領主ファフル・アッ=ディーン2世英語版が拡充したファフルッディーン城(カラート・イブン・マアーン)

列柱道路

神殿から始まるパルミラの列柱道路は、古代都市の残る部分に通ずる古代のデクマヌスに相当する。列柱道路には、華麗な装飾が施された記念門(3世紀初頭のセプティミウス・セウェルスの治世にさかのぼる)がある。遺跡の第一区域の端には、大部分が復元された4塔門建築 (tetrapylon) である四面門があり、4つの基壇に各4組の柱を備える(エジプトの花崗岩でできた元来の柱のうち1本だけが今も見られる)。

ディオクレティアヌスの浴場

記念門から少し離れて、ディオクレティアヌスの浴場といわれる浴場と、ナブー(ナボ)神殿が現在に残る。

ローマ劇場

現在のパルミラに残るローマ劇場は、9列の座席を持つ。元来は木造の建築物が付け足されておそらく12列まであった[22]。劇場は紀元1世紀初頭の時代のものとされている。

ローマ劇場の後方には、地元貴族が法を議論し、政治的決定を行なった小さな元老院の建物、また、キャラバンが支払をする場所であったことを示唆する碑文があるいわゆる「関税所」が位置する。すぐ近くには大きなアゴラ (48 × 71m) が、宴会場(トリクリニウム)の遺構とともにある。アゴラの入口は、セプティミウス・セウェルスと彼の家族の像が飾られていた。

ディオクレティアヌス城砦

横軸となる通りは、シリアの統治者ソシアヌス・ヒエロクレスによって築かれたディオクレティアヌス城砦へとつながり[23]、中央に大きな principia (軍隊の本営を収容する広間)の遺構がある。近くにはシリアの女神アラートの神殿(西暦2世紀)がある。ディオクレティアヌス城砦のそばのダマスカス門とバール=シャミン神殿は西暦17年に建立され、後にオダエナトゥスの統治下で拡大した。遺構には内陣 (cella) へと通じる注目すべきポルチコ(柱廊玄関)がある。

ギャラリー

世界遺産

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

危機遺産

シリア内戦による保全状況の悪化を理由に、他のシリアの世界遺産とともに危機遺産リストに加えられた。2世紀ごろの建造とされる凱旋門のアーチは崩落している。[24]

脚注

  1. ^ パルミラの遺跡 (1988)、13頁
  2. ^ a b c パルミラの遺跡 (1988)、14頁
  3. ^ パルミラの遺跡 (1988)、17頁
  4. ^ Terry Jones' Barbarians, Terry Jones, Alan Ereira
  5. ^ パルミラの遺跡 (1988)、19-20頁
  6. ^ a b パルミラの遺跡 (1988)、22頁
  7. ^ パルミラの遺跡 (1988)、24頁
  8. ^ ヒッティ、120頁
  9. ^ "Palmyra". Catholic Encyclopedia. (1913). New York: Robert Appleton Company.
  10. ^ Palmyra (Titular See) - catholic-hierarchy.org
  11. ^ イスラム国、シリア中部パルミラを制圧 世界遺産に破壊の危機”. ロイター (2015年5月21日). 2015年6月7日閲覧。
  12. ^ a b 「パルミラ復興へ恩返し/遺跡守ろうとした学者 ISが処刑/旧知の日本人学者 若手を指導」朝日新聞』夕刊2019年1月19日(1面)2019年1月22日閲覧。
  13. ^ シリア・パルミラ遺跡の凱旋門、ISISが爆破”. CNN (2015年10月6日). 2015年10月6日閲覧。
  14. ^ 「考古学者82歳、IS(イスラム国)に斬首される パルミラ遺跡を守り続け」ハフィントン・ポスト2015年08月24日
  15. ^ 「アサド政権軍、ISからパルミラ奪還 国営メディア報道」朝日新聞デジタル2016年3月27日
  16. ^ 「アサド政権軍がパルミラ奪還か」ロイター2016年 03月 26日
  17. ^ "Syrian Regime Regains Control of Palmyra"WALL STREET JOURNAL March 27, 2016
  18. ^ 「MILITANTS RETAKE ANCIENT CITY OF PALMYRA FROM SYRIAN FORCES」 Archived 2014年11月9日, at the Wayback Machine. AP通信 Dec 11, 4:15 PM EST
  19. ^ アサド政権軍、ISからパルミラ再奪還 シリア 朝日新聞デジタル 2017年3月3日付
  20. ^ Ross (1999), p. 165
  21. ^ パルミラの遺跡 (1988)、49頁
  22. ^ Ross (1999), p. 169
  23. ^ Ross (1999), p. 171
  24. ^ 世界遺産パルミラ無残 IS破壊の跡

参考文献

  • アドナン=ブンニ、ハレド=アル=アサド 著、小玉新次郎 訳『パルミラの遺跡』東京新聞出版局、1988年。 
  • P. K. ヒッティ 著、小玉新次郎 訳『シリア』中央公論社中公文庫〉、1991年。ISBN 4-12-201785-8 
  • Burns, Ross (1999). Monuments of Syria. London and New York: I.B. Tauris. pp. 162–175 
  • Isaac, Benjamin (2000). The Limits of Empire - the Roman Army in the East (revised ed.). Oxford: Clarendon Press 

外部リンク

早朝のパルミラ遺跡
ベル神殿の境内からの眺望
ベル神殿の境内(中央: 本殿)
パルミラのローマ劇場