「プロブス」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
30行目: | 30行目: | ||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
ローマ属州[[パンノニア]]の州都[[シルミウム]]の出身であり、若年時より軍隊に志願、[[ウァレリアヌス]]帝の治世下で出世を遂げ、軍団長に抜擢された。[[271年]]、皇帝[[アウレリアヌス]]による[[パルミラ |
ローマ属州[[パンノニア]]の州都[[シルミウム]]の出身であり、若年時より軍隊に志願、[[ウァレリアヌス]]帝の治世下で出世を遂げ、軍団長に抜擢された。[[271年]]、皇帝[[アウレリアヌス]]による[[パルミラ帝国]]への征討戦に従事し、パルミラ支配下にあった[[アエギュプトゥス]](エジプト)を占領して勝利に貢献した。また、アウレリアヌスがローマへの帰路に着くに際しては、パルミラ王国が支配していた東方全域の防衛の任を受けた。 |
||
[[276年]]皇帝[[マルクス・クラウディウス・タキトゥス|タキトゥス]]がシリアにて陣没した後、東方属州の軍の支持を受けて皇帝に名乗りを挙げ、西方属州及び元老院が支持した[[フロリアヌス]]と対峙したものの、フロリアヌスが暗殺されたことで解決をみた。 |
[[276年]]皇帝[[マルクス・クラウディウス・タキトゥス|タキトゥス]]がシリアにて陣没した後、東方属州の軍の支持を受けて皇帝に名乗りを挙げ、西方属州及び元老院が支持した[[フロリアヌス]]と対峙したものの、フロリアヌスが暗殺されたことで解決をみた。 |
2020年9月5日 (土) 00:25時点における版
プロブス Probus | |
---|---|
ローマ皇帝 | |
プロブス帝の胸像 | |
在位 | 276年-282年9月or10月 |
全名 |
マルクス・アウレリウス・プロブス Caesar Marcus Aurelius Probus Augustus |
出生 |
232年8月19日 パンノニア・インフェリオル属州シルミウム |
死去 |
282年9月or10月(満50歳没) シルミウム |
継承 | カルス |
配偶者 | 名前不明 |
子女 | プロバ |
父親 | ダルマティウス |
母親 | 名前不明 |
マルクス・アウレリウス・プロブス(Marcus Aurelius Probus, 232年 - 282年)は、軍人皇帝時代のローマ皇帝(在位:276年 - 282年)。
生涯
ローマ属州パンノニアの州都シルミウムの出身であり、若年時より軍隊に志願、ウァレリアヌス帝の治世下で出世を遂げ、軍団長に抜擢された。271年、皇帝アウレリアヌスによるパルミラ帝国への征討戦に従事し、パルミラ支配下にあったアエギュプトゥス(エジプト)を占領して勝利に貢献した。また、アウレリアヌスがローマへの帰路に着くに際しては、パルミラ王国が支配していた東方全域の防衛の任を受けた。
276年皇帝タキトゥスがシリアにて陣没した後、東方属州の軍の支持を受けて皇帝に名乗りを挙げ、西方属州及び元老院が支持したフロリアヌスと対峙したものの、フロリアヌスが暗殺されたことで解決をみた。
治世の大半をライン川・ドナウ川戦線での蛮族迎撃に従事。軍人としての能力は高くローマ帝国への蛮族の侵入はほとんど撃破し、逆に蛮族の地に攻め込み国境の安定を図ることもなしえた。一方でローマ帝国内での内乱が絶えず発生し、280年にはエジプトでサトゥルニヌスらの反乱を鎮圧した。また荒廃した農地を復興させるという重要事を手掛けるが、それを担当した軍内に反発が生まれ、282年、ペルシア戦役に向かう途中で兵士たちに暗殺された。将官クラスは関与しない暗殺だったとされるが、近衛軍団長官のカルスが関わったともされる。
末裔
プロブス帝の治世から約90年後の371年当時、コンスルであったセクストゥス・クラウディウス・ペトロニウス・プロブス(328年 - 390年以降)はプロブス帝の末裔を自称している(MommaertsとKelleyが作成した家系図によると、プロブス帝の娘プロバがペトロニウス・アンニアヌス(314年のコンスル)と結婚、ペトロニウス・プロビアヌス(270年 - 331年以降。322年のコンスル)を儲けた。プロビアヌスが妻アニキアとの間にペトロニウス・プロビヌス(305年 - 346年以降。341年のコンスル)を儲け、プロビヌスとその妻クラウディア(又はクロディア)の息子がセクストゥス・クラウディウス・ペトロニウス・プロブスで、プロブス帝とセクストゥス・クラウディウス・ペトロニウス・プロブスは高祖父と玄孫の関係となり、プロブス帝の女系子孫が後世に存続したことになる)。
セクストゥス・クラウディウス・ペトロニウス・プロブスはアニキア・ファルトニア・プロバ(355年頃 - 432年、彼女はゴルディアヌス1世とその孫ゴルディアヌス3世の子孫)との間に以下の4子がいる。
- 次男:フラウィウス・アニキウス・ヘルモゲニアヌス・オリュブリウス(375年 - 没年不明)
- 三男:フラウィウス・アニキウス・ペトロニウス・プロブス(生年不明 - 406年以降)
- 長男:フラウィウス・アニキウス・プロビヌス(生年不明 - 397年以降)
- 長女:アニキア・プロバ(380年 - 没年不明)
フラウィウス・アニキウス・ヘルモゲニアヌス・オリュブリウスの子にデメトリアスという娘(398年 - 没年不明)と息子アニキウス・プロブス(405年 - 459年以降)がいる(デメトリアスとプロブスの母はアニキア・ユリアナ(380年頃生誕)。孫(子プロブスの息子達)にオリブリオス帝とその弟アニキウス・プロブス(435年 - 没年不明)がいる。
フラウィウス・アニキウス・プロビヌスの子にペトロニウス・マクシムス帝がいる(プロビヌスの妻にしてマクシムス帝の母はマグナ(マグヌス・マクシムス帝の娘))。
アニキア・プロバはアキリウス・グラブリオ・シビディウス(365年 - 400年以降)と結婚。アニキウス・グラブリオ・ファウストゥス(395年 - 438年以降)を儲けた。ファウストゥスはアウグストゥス帝、プピエヌス帝などの血を引く女性タッルテニア(395年 - 438年以降)との間にメッレタ・タッルテニアという娘を儲けた。
フラウィウス・アニキウス・ペトロニウス・プロブスには妻子は確認できないが、ヘルモゲニアヌス・オリュブリウス、プロビヌス、プロバの3人の血筋は少なくとも8世紀まで存続している。
人柄
エウトロピウスは彼の人柄をこう記している。
プロブス帝は公明正大でやる気に満ちた熱血漢であり、軍隊内での声望はアウレリアヌス帝に匹敵し、慈悲深さという面では勝っていた
参考文献
- エウトロピウス 首都創建以来の略史第九巻