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「仁義佛立講開拓団」の版間の差分

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== 開拓団の遭難 ==
== 開拓団の遭難 ==
1945年[[8月9日]]、ソ連軍が満洲国に[[ソ連対日参戦|侵攻を開始した]]。[[8月12日]]、開拓団にも関東軍がいる新京方面に脱出するよう避難命令が出された。脱出の途上、開拓団はソ連軍機の空襲や現地の中国人暴民の襲撃に遭いながら逃避行を続けたが、[[8月25日]]に[[竜江省]][[トウ南市|洮南県]]西方20kmの地点でソ連軍の自動車化歩兵部隊と遭遇した。ソ連軍は避難民へ向けてトラックで突進しながら機銃掃射を行い、多数の避難民が射殺され、トラックから降りてきたソ連兵が、生死を問わず銃剣などで避難民に止めを刺していった。児童ですら小銃の台尻で殴り殺されたという。避難民の中には絶望して自決した者も相当数にのぼり、生存者は20人ほどとされている。
1945年[[8月9日]]、ソ連軍が満洲国に[[ソ連対日参戦|侵攻を開始した]]。[[8月12日]]、開拓団にも関東軍がいる新京方面に脱出するよう避難命令が出された。脱出の途上、開拓団はソ連軍機の空襲や現地の中国人暴民の襲撃に遭いながら逃避行を続けたが、[[8月25日]]に[[竜江省]][[南市|洮南県]]西方20kmの地点でソ連軍の自動車化歩兵部隊と遭遇した。ソ連軍は避難民へ向けてトラックで突進しながら機銃掃射を行い、多数の避難民が射殺され、トラックから降りてきたソ連兵が、生死を問わず銃剣などで避難民に止めを刺していった。児童ですら小銃の台尻で殴り殺されたという。避難民の中には絶望して自決した者も相当数にのぼり、生存者は20人ほどとされている。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年9月3日 (木) 11:25時点における版

仁義佛立講開拓団(じんぎぶつりゅうこうかいたくだん)は、東京材木町(現・東京都港区)にあった乗泉寺[注釈 1]の信徒が結成した満蒙開拓団1945年昭和20年)8月25日満州国竜江省(現・中華人民共和国黒龍江省)において同開拓団の避難民約680人がソ連軍と中国人暴民に襲撃され、避難民多数が虐殺された。8月14日の葛根廟事件、8月17日の東京荏原開拓団の遭難 (双明子事件)、8月25日の仁義佛立講開拓団の遭難 (洮南西方20キロ) とを併せて、「総省三大遭難事件」[3][4]、「興安三事件」[5]、「興安省における三大遭難事件」[6]と呼ぶ。

概要

1936年(昭和11年)、廣田内閣の「七大国策」の一つとして疲弊した地方農民などの救済を目的とした「満州開拓移民推進計画」が決議され、満州への移民政策が推進された。本門佛立宗では、この政策に従って「佛立満蒙開拓団」として関東、関西を中心に開拓移民を募集した。この時、東京材木町にあった乗泉寺の一般信徒達で「仁義佛立講開拓団」が結成され、1940~43年末にかけて満蒙国境に近い興安南省西科前旗に入植した。

開拓団の遭難

1945年8月9日、ソ連軍が満洲国に侵攻を開始した8月12日、開拓団にも関東軍がいる新京方面に脱出するよう避難命令が出された。脱出の途上、開拓団はソ連軍機の空襲や現地の中国人暴民の襲撃に遭いながら逃避行を続けたが、8月25日竜江省洮南県西方20kmの地点でソ連軍の自動車化歩兵部隊と遭遇した。ソ連軍は避難民へ向けてトラックで突進しながら機銃掃射を行い、多数の避難民が射殺され、トラックから降りてきたソ連兵が、生死を問わず銃剣などで避難民に止めを刺していった。児童ですら小銃の台尻で殴り殺されたという。避難民の中には絶望して自決した者も相当数にのぼり、生存者は20人ほどとされている。

脚注

注釈

  1. ^ 妙證山乘泉寺: 櫻田町本門法華宗京都妙蓮寺末。元和年中小田家臣兒島勘兵衛、芝西久保に一小庵を創設し本山の學徒實證院日周大徳を住持とす。後幕命に依つて現地に移つた。享保六年二月七日火災に罹り焼失し、本山二十世の信入院日崇の手に依つて中興された。當寺は大正初年より本門佛立講東京第二支部として弘通發展し、境域遂次擴張の上昭和八年に至り隣接の臨済宗妙心寺派大法寺境内を全部買収し、遂に總工費五十餘萬圓の大伽藍を營むに至つた[1][2]

出典

  1. ^ 東京市麻布區篇『麻布區史』東京市麻布區、昭和十六年三月、八六二~八六三頁
  2. ^ デジタル版 港区のあゆみ 『麻布区史』8384
  3. ^ 外務省アジア局第五課「興安総省概況 (満洲省別概況第一三号) 昭和二十七年六月」加藤聖文監修・編集『海外引揚関係資料集成 (国外篇)』ゆまに書房、2002年5月31日 発行、ISBN 4-87802-097-0、25頁。
  4. ^ 満蒙同胞援護会編『満蒙終戦史』河出書房新社、昭和三十七年七月二十日発行、134頁。
  5. ^ 終戦前後の満洲における惨劇中国帰国者定着促進センター
  6. ^ 中山隆志『満洲 - 1945・8・9 ソ連軍進攻と日本軍』国書刊行会、平成2年8月25日発行、ISBN 4-336-03167-3、410頁。

参考文献

関連文献

  • 東京都民生局援護部「集団12次仁義仏立開拓団」昭和30・7・1 民援一発第三五二号。
  • 飯島四郎(当時仁義仏立開拓団団員・本城部落長)「北満開拓団の最期」伊藤正徳・富岡定俊・稲田正純監修『実録太平洋戦争 7 開戦前夜と敗戦秘話』中央公論社、昭和三十五年十一月二十五日発行、183~195頁。
  • 満洲開拓史刊行会編『満洲開拓史』開拓自興会、昭和41年4月17日 発行、743~744頁。
  • 髙石末吉「或る開拓團の悲劇」『覚書終戦財務始末 <第7巻> 沖縄・満洲・支那・南方の終戦』大蔵財務協会、昭和45年10月1日発行、402~423頁。
  • 公開経営指導協会編集『公開経営指導協会三十周年記念出版 日本小売業運動史 第二巻 戦時編』公開経営指導協会、昭和五十四年三月八日 発行、445~450頁。
  • 満ソ殉難者慰霊顕彰会編・泉可畏翁編集責任『満ソ殉難記』満ソ殉難者慰霊顕彰会、昭和五十五年 八月九日 第一刷、347頁。
  • 山岡荘八『小説太平洋戦争 6 帝国の終焉』講談社、昭和五八年八月五日 第一刷発行、ISBN 4-06-187276-1、345~347頁。
  • 藤原作弥『満州、少国民の戦記』新潮社、一九八四年八月五日 発行、ISBN 4-10-341902-4、249頁。
  • 日垣隆『されどわが祖国: 中国残留帰国者物語』信濃毎日新聞社、昭和六十三年八月五日 発行、201~202頁。
  • 梁礼先・矢野一弥『満州鎮魂 – 引揚からみる戦中・戦後』インパクト出版会、2001年1月31日 第1刷発行、ISBN 4-7554-0105-4、100頁。
  • 井出孫六『中国残留邦人: 置き去られた六十余年〈岩波新書(新赤版)1119〉』岩波書店、2008年3月19日 第1刷発行、ISBN 978-4-00-431119-5、172~177頁。

関連項目

外部リンク