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梁の[[天監]]初年、臨川王[[蕭宏]]の妃の弟であったため、征虜主簿から臨川王中軍功曹に転じ、尚書庫部侍郎・丹陽尹丞・太子太傅丞・尚書殿中侍郎・[[南徐州]]治中を歴任した。公務中の事件のために免官されたが、長らくを経て太子洗馬として再起し、書記を管掌し、寿光殿での講義に侍した。 |
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[[蕭衍|武帝]]の即位以来、若い文学の士たちが宮中に召し出され、劉苞と[[劉孝綽]]・[[劉孺]]・[[到漑]]・[[到洽]]・[[到沆]]・[[陸スイ|陸倕]]・[[張率]]らは文才で知られ、多くの酒宴に列席し、武帝の賞賜を受けた。[[511年]](天監10年)、死去した。享年は30。友人の[[劉之リン|劉之遴]]が葬儀を取りしきり、友人たちがかれの死を惜しんだ。 |
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== 伝記資料 == |
== 伝記資料 == |
2020年9月3日 (木) 11:20時点における版
劉苞(りゅう ほう、482年 - 511年)は、南朝梁の官僚・文人。字は孝嘗、または孟嘗。本貫は彭城郡彭城県安上里。
経歴
斉の太子中庶子の劉愃(劉絵の兄)の子として生まれた。早くに父母とふたりの兄を亡くし、16歳のときに墓所を移して改葬したが、おじたちの援助を受けずにやり遂げたため、感心された。若くして学問を好み、文章を得意とした。司徒法曹行参軍を初任としたが、任に就かなかった。
梁の天監初年、臨川王蕭宏の妃の弟であったため、征虜主簿から臨川王中軍功曹に転じ、尚書庫部侍郎・丹陽尹丞・太子太傅丞・尚書殿中侍郎・南徐州治中を歴任した。公務中の事件のために免官されたが、長らくを経て太子洗馬として再起し、書記を管掌し、寿光殿での講義に侍した。
武帝の即位以来、若い文学の士たちが宮中に召し出され、劉苞と劉孝綽・劉孺・到漑・到洽・到沆・陸倕・張率らは文才で知られ、多くの酒宴に列席し、武帝の賞賜を受けた。511年(天監10年)、死去した。享年は30。友人の劉之遴が葬儀を取りしきり、友人たちがかれの死を惜しんだ。