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「鄭敦謹」の版間の差分

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[[1855年]]に[[北京市|北京]]に呼び戻され、太常寺少卿となり、[[1858年]]には山東学政、大理寺卿となった。[[1862年]]より戸部侍郎、山西布政使、陝西布政使、直隷布政使、河東河道総督を歴任した。[[1865年]]には湖北巡撫となったが、戸部侍郎として呼び戻され、[[1866年]]に刑部侍郎に異動となった。


[[1867年]]、左都御史となり、山西巡撫の[[趙長齢]]と按察使の[[陳ショク|陳湜]]が捻軍の[[山西省]]通過を許してしまったことの調査にあたり、趙長齢と陳湜は免職となった。このため「鉄面無私」と評された。鄭敦謹はそのまま山西巡撫の代理を命じられるが、[[1868年]]に[[回民蜂起]]軍が[[オルドス地方]]に入ったため、[[寧武県|寧武]]に駐屯し、これを破った。
[[1867年]]、左都御史となり、山西巡撫の[[趙長齢]]と按察使の[[陳湜]]が捻軍の[[山西省]]通過を許してしまったことの調査にあたり、趙長齢と陳湜は免職となった。このため「鉄面無私」と評された。鄭敦謹はそのまま山西巡撫の代理を命じられるが、[[1868年]]に[[回民蜂起]]軍が[[オルドス地方]]に入ったため、[[寧武県|寧武]]に駐屯し、これを破った。


[[1869年]]、兵部尚書となり、北京に戻った。翌年、刑部尚書に異動した。この年、[[両江総督]][[馬新貽]]暗殺事件が発生し、調査を命じられた[[魁玉]]と[[張之万]]は犯人の[[張文祥]]には背後関係はないと報告した。鄭敦謹は再調査を命じられたが、張文祥の供述は変わらなかったため、魁玉と張之万の調査の通りと報告した。
[[1869年]]、兵部尚書となり、北京に戻った。翌年、刑部尚書に異動した。この年、[[両江総督]][[馬新貽]]暗殺事件が発生し、調査を命じられた[[魁玉]]と[[張之万]]は犯人の[[張文祥]]には背後関係はないと報告した。鄭敦謹は再調査を命じられたが、張文祥の供述は変わらなかったため、魁玉と張之万の調査の通りと報告した。

2020年9月3日 (木) 11:19時点における最新版

鄭 敦謹(てい とんきん、Zhang Zhiwan1803年 - 1885年)は、末の官僚。字は小山湖南省長沙県出身。

1835年進士となり、庶吉士に選ばれた。刑部主事、郎中、登州知府を歴任し、河南南汝光道に抜擢された。

1851年泌陽の土匪喬建徳を捕らえ、布政使代理に昇進した。1852年、広東布政使に任命されたが、河南省にとどまった。太平天国軍が湖北省に侵攻すると、信陽に駐屯した。1853年欽差大臣琦善安徽省に応援に赴くと、鄭敦謹は信陽で食糧の補給を担当した。さらに琦善軍が江北に進軍すると、鄭敦謹も徐州に移動して食糧補給を続けた。この年、河南布政使に任命された。1854年光州陳州捻軍が蜂起し、河南巡撫の英桂汝陽に駐屯すると、鄭敦謹も河南省に戻って団練の組織にあたった。捻軍は安徽省から永城夏邑に攻撃を仕掛けたが、鄭敦謹は黄河の渡河口の守備を固めて捻軍の北上を防いだ。

1855年北京に呼び戻され、太常寺少卿となり、1858年には山東学政、大理寺卿となった。1862年より戸部侍郎、山西布政使、陝西布政使、直隷布政使、河東河道総督を歴任した。1865年には湖北巡撫となったが、戸部侍郎として呼び戻され、1866年に刑部侍郎に異動となった。

1867年、左都御史となり、山西巡撫の趙長齢と按察使の陳湜が捻軍の山西省通過を許してしまったことの調査にあたり、趙長齢と陳湜は免職となった。このため「鉄面無私」と評された。鄭敦謹はそのまま山西巡撫の代理を命じられるが、1868年回民蜂起軍がオルドス地方に入ったため、寧武に駐屯し、これを破った。

1869年、兵部尚書となり、北京に戻った。翌年、刑部尚書に異動した。この年、両江総督馬新貽暗殺事件が発生し、調査を命じられた魁玉張之万は犯人の張文祥には背後関係はないと報告した。鄭敦謹は再調査を命じられたが、張文祥の供述は変わらなかったため、魁玉と張之万の調査の通りと報告した。

1871年に引退。死後、恪慎の諡号が贈られた。

出典

[編集]
先代
譚廷襄
河道総督
1864-1865
次代
張之万
先代
呉昌寿
湖北巡撫
1865
次代
李鶴年
先代
譚廷襄
都察院漢左都御史
1867-1868
次代
毛昶熙
先代
趙長齢
山西巡撫
1868-1869
次代
李宗羲
先代
単懋謙
工部漢尚書
1868-1869
次代
毛昶熙
先代
董恂
兵部漢尚書
1869-1870
次代
沈桂芬
先代
譚廷襄
刑部漢尚書
1870-1871
次代
龐鍾璐