「河村若芝」の版間の差分
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|款記「煙霞道人若芝敬寫」/「釋蘭渓印」朱文方印・「若芝氏」朱白文方印 |
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2020年9月3日 (木) 11:16時点における版
河村 若芝(かわむら じゃくし、寛永15年(1638年) - 宝永4年10月1日(1707年10月25日))は、江戸時代前期に長崎で活躍した画家・工芸家。逸然に就いて画を修め、長崎漢画の発展に尽くした。その奇矯な画様は伊藤若冲や曾我蕭白などの「奇想の画家」のルーツとされる。また、腐食象眼の技を学び鍔細工に優れた。
字を蘭渓、道号を道光、煙霞比丘(師から襲名)・風狂子・紫陽山人・散逸道人・普馨などと号した。また釈道光・意山和尚とも呼ばれた。
略伝
肥前国佐嘉の豪族龍造寺家の出自という。なんらかの理由で隠遁生活を送り、長崎に出て黄檗僧と交友するうち、逸然に就いて画を学ぶ。渡辺秀石とともに長崎漢画を代表する画人となり、ともに師と共通の画号である煙霞比丘を襲名。逸然と同じく、道釈人物図を得意とするが、山水図や花鳥画も画き、喜多元規風の頂相も画いている。若芝の画風は風狂子の画号通り奇矯な造形美を有し、後の伊藤若冲や曾我蕭白などの奇想の先駈けともいわれる。若芝流の祖となり、門下に上野若元・河村若軌・山本若麟・芦塚若鳳・牛島若融・上野若龍(写真家上野彦馬の父)らがつらなり幕末まで続いた。唐絵目利職になった小原慶山も一時若芝の門下にあった。また紀州の南画家祇園南海に中国絵画の添削指導を行ない、日本南画の発展に寄与した。
木庵から鉄腐象眼の金工技術を学び、若芝鐔工の開祖となった。二代目河村若芝はこの鐔工を継承し優れた刀鍔を残している。
法号蘭渓若芝上座。墓所は海雲山晧台寺後山。現在確認されている作品は50点余である。
作品
作品名 | 技法 | 形状・員数 | 所有者 | 年代 | 款記・印章 | 備考 |
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群仙人星祭図 | 絹本著色 | 1幅 | 神戸市立博物館 | 寛文9年11月1日(1669年12月23日) | ||
観音・難陀竜王・娑羯龍女図 | 絹本著色 | 3幅 | 聖福寺 | 寛文12年2月1日(1672年2月29日) | ||
十八羅漢図 | 18幅 | 聖福寺 | 前述の「観音・難陀竜王・娑羯龍女図」と一具か。 | |||
芦葉達磨図 | 絹本著色 | 1幅 | 長崎歴史文化博物館 | 寛文12年7月(1672年)/同10月着賛 | 隠元隆琦賛 | |
十八羅漢図 | 絹本著色 | 18幅 | 正明寺(滋賀県蒲生郡日野町松尾) | 寛文12年10月(1672年)着賛 | 印章「蘭渓」朱文長方印・「若芝」白文方印 | 隠元隆琦賛 |
韋駄天・緊那羅王図 | 絹本著色 | 対幅 | 崇福寺 | 延宝元年7月1日(1673年8月12日) | ||
山水図 | 絹本著色 | 1幅 | 神戸市立博物館 | 延宝3年12月1日(1676年1月15日) | ||
達磨図 | 絹本著色 | 1幅 | 神戸市立博物館 | 貞享元年(1784年)着賛 | 款記「煙霞道人若芝敬寫」/「釋蘭渓印」朱文方印・「若芝氏」朱白文方印 | 高泉性潡賛 |
布袋図 | 絹本著色 | 1幅 | 長崎歴史文化博物館 | 元禄8年(1695年)以前 | 高泉性潡賛 | |
牡丹図 | 絹本著色 | 1幅 | 本法寺 | 元禄10年8月1日(1697年9月15日) | ||
朱衣達磨図 | 絹本著色 | 双幅 | 東京国立博物館 | 款記「埜衲若芝薫浴敬寫」/「釋蘭渓印」朱文方印・「若芝氏」朱白文方印 |