「天徳院 (金沢市)」の版間の差分
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[[元和 (日本)|元和]]9年([[1623年]])、[[加賀藩]]主[[前田利常]]が、前年に24歳で亡くなった正室[[珠姫]]の[[菩提]]を弔うために創建した。翌年、[[巨山泉滴]]を招聘して開山とした。 |
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[[明治]]12年(1879年)には[[諸岳奕堂]](もろたけえきどう、[[總持寺]]独住第1世)が[[住職]]に就任。[[大正]]4年(1915年)には[[森田悟由]]([[永平寺]]貫首、曹洞宗管長)が住職に就任した。大正12年(1923年)には[[関東大震災]]から避難した[[室生犀星]]が滞在している。 |
2020年9月3日 (木) 11:15時点における版
天徳院 | |
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山門 | |
所在地 | 石川県金沢市小立野4-4-4 |
位置 | 北緯36度33分5.26秒 東経136度40分37.23秒 / 北緯36.5514611度 東経136.6770083度座標: 北緯36度33分5.26秒 東経136度40分37.23秒 / 北緯36.5514611度 東経136.6770083度 |
山号 | 金龍山(きんりゅうざん) |
院号 | 天徳院(天德院) |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 釈迦牟尼仏 |
創建年 | 元和9年(1623年) |
開基 | 前田利常、巨山泉滴(開山) |
文化財 | 山門(市文化財) |
法人番号 | 9220005000683 |
天徳院(てんとくいん)は、石川県金沢市小立野にある曹洞宗の寺院。山号は金龍山(きんりゅうざん)。院号は加賀藩主前田利常の正室珠姫の法号である天徳院殿 乾運淳貞 大禅定尼にちなんでいる。
歴史
元和9年(1623年)、加賀藩主前田利常が、前年に24歳で亡くなった正室珠姫の菩提を弔うために創建した。翌年、巨山泉滴を招聘して開山とした。
元禄6年(1693年)、黄檗宗の高泉性潡が伽藍を黄檗式建築で整備するが、明和5年(1768年)の火災で、山門・宝蔵などを除き、主要伽藍を焼失した。伽藍整備は迅速に行われ、翌明和6年には前田重教によって本堂、講堂、庫裏が再興された。
明治12年(1879年)には諸岳奕堂(もろたけえきどう、總持寺独住第1世)が住職に就任。大正4年(1915年)には森田悟由(永平寺貫首、曹洞宗管長)が住職に就任した。大正12年(1923年)には関東大震災から避難した室生犀星が滞在している。
伽藍
文化財
行事
所在地
交通アクセス
- 北陸自動車道金沢森本ICより山側環状道路利用。車で15分。
- JR北陸本線金沢駅から車で20分
- JR北陸本線金沢駅から西口から北陸鉄道グループ路線バス利用。10番、11番、12番、16番乗車。「天徳院前」バス停下車すぐ。