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董宗本の子として生まれた。父が[[遼|契丹]]から逃れ[[劉知遠]]に仕えて[[随州]][[刺史]]となると、遵誨は父の下で随州牙校となった。[[後周]]の[[顕徳]]元年([[954年]])、[[柴栄|世宗]]が北征したとき、遵誨は母の兄弟の[[高懐徳]]の下で従軍した。高懐徳の軍が高平にいたり、[[北漢]]軍と遭遇すると、遵誨は奇兵を率いて北漢の陣営を先に攻撃した。高懐徳の本隊が次いで押し寄せると、北漢軍は混乱して敗走した。顕徳2年([[955年]])、[[韓通]]の下で[[秦州]]・[[鳳州]]攻撃に従軍した。唐倉で軍の先頭に立って戦い、[[後蜀]]の招討使の王鸞を捕らえ、秦州・鳳州を落とした。凱旋すると、功績により東西班押班の位を受け、驍武軍指揮使に転じた。顕徳4年([[957年]])、世宗の[[南唐]]遠征に従軍して、合肥攻撃に参加した。顕徳6年([[959年]])、韓通の下で[[雄州]]・[[覇州]]を平定した。
董宗本の子として生まれた。父が[[遼|契丹]]から逃れ[[劉知遠]]に仕えて[[随州]][[刺史]]となると、遵誨は父の下で随州牙校となった。[[後周]]の[[顕徳]]元年([[954年]])、[[柴栄|世宗]]が北征したとき、遵誨は母の兄弟の[[高懐徳]]の下で従軍した。高懐徳の軍が高平にいたり、[[北漢]]軍と遭遇すると、遵誨は奇兵を率いて北漢の陣営を先に攻撃した。高懐徳の本隊が次いで押し寄せると、北漢軍は混乱して敗走した。顕徳2年([[955年]])、[[韓通]]の下で[[秦州]]・[[鳳州]]攻撃に従軍した。唐倉で軍の先頭に立って戦い、[[後蜀]]の招討使の王鸞を捕らえ、秦州・鳳州を落とした。凱旋すると、功績により東西班押班の位を受け、驍武軍指揮使に転じた。顕徳4年([[957年]])、世宗の[[南唐]]遠征に従軍して、合肥攻撃に参加した。顕徳6年([[959年]])、韓通の下で[[雄州]]・[[覇州]]を平定した。


宋の[[建隆]]元年([[960年]])、[[李筠]]が[[沢州]]・[[ロ州|潞州]]で反乱を起こすと、遵誨は[[慕容延釗]]の下で反乱を鎮圧した。馬軍都軍頭となって、現地にとどまって守備にあたった。建隆3年([[962年]])、召還されて散員都虞候となった。[[乾徳 (宋)|乾徳]]6年([[968年]])、[[通遠軍]]使に任じられて、[[タングート]]の諸族との通交の任にあたった。数カ月後、タングートの反乱が起こると、遵誨は兵を率いて反乱軍を撃破した。軍功が認められて、通遠軍使のまま[[化州 (広東省)|羅州]]刺史に任じられた。[[開宝]]9年([[976年]])、[[太宗 (宋)|太宗]]が即位すると、霊州路巡検を兼ねた。
宋の[[建隆]]元年([[960年]])、[[李筠]]が[[沢州]]・[[潞州]]で反乱を起こすと、遵誨は[[慕容延釗]]の下で反乱を鎮圧した。馬軍都軍頭となって、現地にとどまって守備にあたった。建隆3年([[962年]])、召還されて散員都虞候となった。[[乾徳 (宋)|乾徳]]6年([[968年]])、[[通遠軍]]使に任じられて、[[タングート]]の諸族との通交の任にあたった。数カ月後、タングートの反乱が起こると、遵誨は兵を率いて反乱軍を撃破した。軍功が認められて、通遠軍使のまま[[化州 (広東省)|羅州]]刺史に任じられた。[[開宝]]9年([[976年]])、[[太宗 (宋)|太宗]]が即位すると、霊州路巡検を兼ねた。


[[太平興国]]6年([[981年]])、死去した。享年は56。
[[太平興国]]6年([[981年]])、死去した。享年は56。

2020年9月3日 (木) 11:11時点における版

董遵誨(とう じゅんかい、926年 - 981年)は、中国五代から北宋にかけての武将。本貫涿州范陽県

経歴

董宗本の子として生まれた。父が契丹から逃れ劉知遠に仕えて随州刺史となると、遵誨は父の下で随州牙校となった。後周顕徳元年(954年)、世宗が北征したとき、遵誨は母の兄弟の高懐徳の下で従軍した。高懐徳の軍が高平にいたり、北漢軍と遭遇すると、遵誨は奇兵を率いて北漢の陣営を先に攻撃した。高懐徳の本隊が次いで押し寄せると、北漢軍は混乱して敗走した。顕徳2年(955年)、韓通の下で秦州鳳州攻撃に従軍した。唐倉で軍の先頭に立って戦い、後蜀の招討使の王鸞を捕らえ、秦州・鳳州を落とした。凱旋すると、功績により東西班押班の位を受け、驍武軍指揮使に転じた。顕徳4年(957年)、世宗の南唐遠征に従軍して、合肥攻撃に参加した。顕徳6年(959年)、韓通の下で雄州覇州を平定した。

宋の建隆元年(960年)、李筠沢州潞州で反乱を起こすと、遵誨は慕容延釗の下で反乱を鎮圧した。馬軍都軍頭となって、現地にとどまって守備にあたった。建隆3年(962年)、召還されて散員都虞候となった。乾徳6年(968年)、通遠軍使に任じられて、タングートの諸族との通交の任にあたった。数カ月後、タングートの反乱が起こると、遵誨は兵を率いて反乱軍を撃破した。軍功が認められて、通遠軍使のまま羅州刺史に任じられた。開宝9年(976年)、太宗が即位すると、霊州路巡検を兼ねた。

太平興国6年(981年)、死去した。享年は56。

人物・逸話

  • 趙匡胤の若いころ、地方を遊歴して漢東にいたると、董宗本のもとを頼った。遵誨は父の権力を笠に着て居丈高であったので、趙匡胤はかれを避けた。あるとき遵誨は、城の上に紫雲がおおい、百尺あまりの黒蛇が龍に化けて東北に飛び去った夢の話をして、趙匡胤の意見を求めたが、趙匡胤は答えなかった。趙匡胤が即位すると、遵誨はかつての無礼を謝し、地に伏して死を願い出た。趙匡胤は側近たちに命じてかれを助け起こさせ、「卿は過日の紫雲と化龍の夢のことを覚えているか」と訊ねると、遵誨は再拝して万歳をとなえた。まもなく遵誨の部下がかれの不法十数条を訴えたが、趙匡胤は不問に付した。遵誨はますます恥じいって罪罰を課すよう願い出たので、趙匡胤はかれをなだめさとした。
  • 遵誨は読み書きを知らなかったが、闊達な性格で軍略に通じ、武芸は並ぶ者もなかった。通遠軍におよそ14年在任して、諸族を威服させた。

子女

  • 董嗣宗
  • 董嗣栄

伝記資料

  • 宋史』巻273 列伝第32