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「頡利可汗」の版間の差分

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武徳4年([[621年]])4月、頡利可汗は自ら万余騎を率いて、馬邑賊の[[苑君璋]]と共に[[雁門関|雁門]]を攻撃したが、定襄王の[[李大恩]]によって敗走させられる。
武徳4年([[621年]])4月、頡利可汗は自ら万余騎を率いて、馬邑賊の[[苑君璋]]と共に[[雁門関|雁門]]を攻撃したが、定襄王の[[李大恩]]によって敗走させられる。


武徳5年([[622年]])2月、李大恩が攻撃してきたので、頡利可汗は[[劉黒闥]]と共に李大恩を包囲し、唐軍を破った。6月、劉黒闥は突厥を招き寄せて[[河北]]を略奪し、頡利可汗はふたたび自ら5万騎を率いて南の[[汾州]]を侵し、また数千騎を派遣して西の[[霊州]],[[原州]]などを侵した。秦王の[[李世民]]は蒲州道を出て霊州・原州の突厥を討った。そのころ頡利可汗は[[并州]]を攻囲し、また兵を分けて汾州,[[ロ州|潞州]]などに侵入し、男女5千余人を掠め、李世民の兵が蒲州に向かってくることを知ると、兵を引いて[[万里の長城|長城]]を出た。
武徳5年([[622年]])2月、李大恩が攻撃してきたので、頡利可汗は[[劉黒闥]]と共に李大恩を包囲し、唐軍を破った。6月、劉黒闥は突厥を招き寄せて[[河北]]を略奪し、頡利可汗はふたたび自ら5万騎を率いて南の[[汾州]]を侵し、また数千騎を派遣して西の[[霊州]],[[原州]]などを侵した。秦王の[[李世民]]は蒲州道を出て霊州・原州の突厥を討った。そのころ頡利可汗は[[并州]]を攻囲し、また兵を分けて汾州,[[潞州]]などに侵入し、男女5千余人を掠め、李世民の兵が蒲州に向かってくることを知ると、兵を引いて[[万里の長城|長城]]を出た。


武徳6年([[624年]])8月、頡利,突利の二可汗は国を挙げて唐に入寇したので、李世民がこれを征討し、頡利,突利の二可汗は軍を引いた。その後、頡利可汗は突利可汗と夾畢特勤の[[阿史那思摩]]を唐に派遣して、和睦を請願した。これにより、阿史那思摩は高祖によって和順王に封ぜられた。
武徳6年([[624年]])8月、頡利,突利の二可汗は国を挙げて唐に入寇したので、李世民がこれを征討し、頡利,突利の二可汗は軍を引いた。その後、頡利可汗は突利可汗と夾畢特勤の[[阿史那思摩]]を唐に派遣して、和睦を請願した。これにより、阿史那思摩は高祖によって和順王に封ぜられた。

2020年9月3日 (木) 11:11時点における版

頡利可汗漢音:けつりかがん、拼音:Jiélìkèhán/Jílìkèhán、? - 634年)は、東突厥可汗啓民可汗の第三子。始畢可汗処羅可汗の弟。頡利可汗(イリグ・カガン Ilig-qaγan[1])というのは称号で、姓は阿史那氏、名は咄苾(とひつ)という。

生涯

啓民可汗の第三子として生まれる。

莫賀咄設(バガテュル・シャド:官名)となる。

武徳3年(620年)、処羅可汗が亡くなると、頡利可汗に即位し、レビラト婚によって義成公主を娶り、始畢可汗の子の什鉢苾を突利可汗とした。また、に遣使を送って入朝し、処羅可汗が亡くなったことを報告した。

武徳4年(621年)4月、頡利可汗は自ら万余騎を率いて、馬邑賊の苑君璋と共に雁門を攻撃したが、定襄王の李大恩によって敗走させられる。

武徳5年(622年)2月、李大恩が攻撃してきたので、頡利可汗は劉黒闥と共に李大恩を包囲し、唐軍を破った。6月、劉黒闥は突厥を招き寄せて河北を略奪し、頡利可汗はふたたび自ら5万騎を率いて南の汾州を侵し、また数千騎を派遣して西の霊州原州などを侵した。秦王の李世民は蒲州道を出て霊州・原州の突厥を討った。そのころ頡利可汗は并州を攻囲し、また兵を分けて汾州,潞州などに侵入し、男女5千余人を掠め、李世民の兵が蒲州に向かってくることを知ると、兵を引いて長城を出た。

武徳6年(624年)8月、頡利,突利の二可汗は国を挙げて唐に入寇したので、李世民がこれを征討し、頡利,突利の二可汗は軍を引いた。その後、頡利可汗は突利可汗と夾畢特勤の阿史那思摩を唐に派遣して、和睦を請願した。これにより、阿史那思摩は高祖によって和順王に封ぜられた。

武徳8年(625年)7月、しかし、頡利可汗は十余万の兵で朔州を大掠した。頡利可汗は唐将の張瑾太原で襲い、張瑾の軍は全滅し、張瑾は身一つで李靖の所へ逃げた。唐軍が拒戦したので、頡利可汗は進まず并州に駐屯した。李世民の軍はこれを討ち、頡利可汗は撤退した。

武徳9年(626年)7月、頡利可汗は自ら十余万騎を率いて武功に侵攻、京師は厳戒態勢に入った。突厥軍は高陵に侵攻し、行軍総管左武候大将軍の尉遅敬徳涇陽で戦って敗北し、俟斤(イルキン:官名)の阿史徳烏没啜は捕えられた。頡利可汗はその腹心の執失思力を遣わして入朝させ、和睦を請うたが、李世民によって拘束された。9月、頡利可汗は馬3千匹、羊1万匹を献上したが、高祖は受け取らず、詔で頡利可汗に今までに捕えた中国人をすべて返還させた。

貞観元年(627年)、陰山以北の薛延陀回紇,拔野古(バイルク)などの諸部は相次いで反乱をおこし、その欲谷設(ヨクク・シャド:官名)[2]を敗走させた。頡利可汗は突利可汗を遣わして、これを討伐させたが、敗北し軽騎で逃げ帰ったので、頡利可汗は怒り、突利可汗を十数日拘束した。突利可汗はこれにより怨みを抱き、内心で謀反を考えるようになった。

貞観3年(629年)、薛延陀は漠北で自ら可汗と称し、勝手に唐へ遣使を送って方物を貢納した。時に東突厥では大雪に見舞わされ、内外の者が頡利可汗から離反した。太宗は、詔で兵部尚書の李靖,代州都督の張公謹,并州都督の李勣,右武衛将軍の丘行恭,左武衛大将軍の柴紹衛孝節薛万徹を派遣して東突厥を討った。12月、突利可汗及び郁射設、蔭奈特勤らは投降した。

貞観4年(630年)2月、頡利可汗は執失思力を入朝させて謝罪させ、国を挙げて内附することを請うた。兵部尚書の李靖はこれに乗じて東突厥を襲撃し、これを大破させ、遂に東突厥を滅ぼした。頡利可汗は千里馬(汗血馬?)に乗り、単騎で従姪の沙鉢羅の部落に奔走した。3月、行軍副総管の張宝の軍は沙鉢羅の陣営に至り、頡利可汗を生け捕って京師に送った。頡利可汗は太宗により右衛大将軍の位を授かった。

貞観8年(634年)、頡利可汗が亡くなり、太宗は詔でその国人に頡利可汗を葬らせ、その俗礼に従って屍を灞水の東で火葬し、帰義王を贈り、諡を荒王とした。

家族

  • 特勤(とくきん)---伽那(かな)---感徳(かんとく)

脚注

  1. ^ il(イル:国家)+lig(リグ:持つところの)すなわち“国家を持つところの可汗”の意。伊利可汗に同じ。
  2. ^ クリャシュトルヌィによれば、「大切なもの、珍しいもの」を示すテュルク語「ヨクク yoquq」を音写したものであるという。≪佐口・山田・護 1972,p225≫

参考資料