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その後、李七郎の仮父[[朱全忠]]の軍に身を投じて信任され、その副将として各地を転戦した。[[天祐 (唐)|天祐]]4年([[907年]])に朱全忠が[[唐]]を滅ぼして[[後梁]]を建てると、荊南節度使に任命され、戦火の絶えなかった湖南の復興に尽力しつつ勢力を拡大した。この時点で後梁から半独立した荊南という国家が事実上成立したのである。 |
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[[乾化]]2年([[912年]])に太祖(朱全忠)が崩御すると、[[荊州]](江陵)・[[秭帰県|帰州]]・[[硤州]]の三州をもって自立したが、末帝([[朱友貞]])が即位すると再び後梁に帰順し、渤海王に封じられた。 |
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[[龍徳 (五代後梁)|龍徳]]3年([[923年]])に後梁が[[後唐]]に滅ぼされると、後唐に服属して[[同光]]2年([[924年]])<ref>『[[資治通鑑]]』『[[十国春秋]]』による。『[[新五代史]]』によると翌同光3年([[925年]])。</ref>に[[李存勗|荘宗]]から南平王に封ぜられた。この時に名を'''季昌'''(きしょう)から、荘宗の祖父[[李国昌]]の[[諱]]を憚って'''季興'''と改めた。しかし後唐の[[前蜀]]攻めに際して、蜀に勢力を伸ばす自らの構想を阻まれた事から後唐と断絶して抗争し、東の[[呉 (十国)|呉]]に服属して秦王に封ぜられた。 |
2020年9月3日 (木) 11:02時点における版
武信王 高季興 | |
---|---|
荊南 | |
初代王 | |
王朝 | 荊南 |
在位期間 | 912年 - 929年1月28日 |
都城 | 江陵 |
姓・諱 | 高季昌→高季興 |
字 | 貽孫 |
諡号 | 武信王 |
生年 | 大中12年(858年) |
没年 |
乾貞2年12月15日 (929年1月28日) |
父 | 朱友讓(仮父) |
生涯
陝州硤石(現在の河南省三門峡市陝州区)に生まれる。はじめ汴州の商人である李七郎(朱友讓)の家僕(召使)として仕えるが、そこで李七郎に才能を見出されて仮子となった。
その後、李七郎の仮父朱全忠の軍に身を投じて信任され、その副将として各地を転戦した。天祐4年(907年)に朱全忠が唐を滅ぼして後梁を建てると、荊南節度使に任命され、戦火の絶えなかった湖南の復興に尽力しつつ勢力を拡大した。この時点で後梁から半独立した荊南という国家が事実上成立したのである。
乾化2年(912年)に太祖(朱全忠)が崩御すると、荊州(江陵)・帰州・硤州の三州をもって自立したが、末帝(朱友貞)が即位すると再び後梁に帰順し、渤海王に封じられた。
龍徳3年(923年)に後梁が後唐に滅ぼされると、後唐に服属して同光2年(924年)[1]に荘宗から南平王に封ぜられた。この時に名を季昌(きしょう)から、荘宗の祖父李国昌の諱を憚って季興と改めた。しかし後唐の前蜀攻めに際して、蜀に勢力を伸ばす自らの構想を阻まれた事から後唐と断絶して抗争し、東の呉に服属して秦王に封ぜられた。
乾貞2年(928年)に死去、享年71。後を長男の高従誨が継いだ。