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2020年9月2日 (水) 13:18時点における版
ロリー・ギャラガー | |
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ロリー・ギャラガー(1987年、ユトレヒト公演にて) | |
基本情報 | |
生誕 | 1948年3月2日 |
出身地 | アイルランド ドニゴール県バリーシャノン |
死没 | 1995年6月14日(47歳没) |
ジャンル | ロック、ブルースロック |
職業 | ギタリスト、シンガーソングライター、プロデューサー |
担当楽器 | ボーカル、ギター、ハーモニカ、マンドリン、ダルシマー、エレクトリック・シタール |
活動期間 | 1963年 - 1995年 |
レーベル |
ポリドール・レコード クリサリス・レコード カポ・レコード |
共同作業者 | テイスト |
公式サイト | rorygallagher.com |
著名使用楽器 | |
フェンダー・ストラトキャスター |
ロリー・ギャラガー(Rory Gallagher、1948年3月2日 - 1995年6月14日)は、アイルランド出身のブルース・ロック・ギタリスト。バリーシャノン生まれ、コーク育ち。死後もなお、ジョニー・マー[1]やグレン・ティプトン[2]など、ロックのジャンルを超越して多くの後進に影響を与え続けている。なお、英語での発音は「ギャラハー」に近い。
2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第57位。
生涯
誕生~テイスト結成・解散
ギャラガーは1948年3月2日、アイルランドのバリーシャノンに生まれ、デリーを経て、8歳頃からコークで育った。 幼い頃にテレビでエルヴィス・プレスリーを観て音楽に目覚め、9歳頃、初めてのアコースティック・ギターを両親から贈られている。 レッドベリーやチャック・ベリー、ロニー・ドネガン、マディ・ウォーターズなどのレコードを聴き漁り、独学でどんどんギターの腕前を上げていったギャラガーは、12歳の時に地元のタレント・コンテストで賞を取り、その賞金で初のエレキ・ギターを入手した。
そして1963年、15歳の時に、地元の楽器屋で中古の61年製フェンダー・ストラトキャスターを100ポンドで購入。(ストラトを選んだ理由は、当時からギャラガーのアイドルだったバディ・ホリーが使用していたため。)アイルランドに上陸した初めてのストラトだとも、2本目だったとも言われている。
この頃、ギャラガーはすでにバンドに加入し、プロとしての活動を始めていた。1960年代半ばには、国内のみならず、スペインのマドリードの米空軍基地や、ロンドンなどにも演奏に出かけている。またその後、ドイツのハンブルクにも渡った。
1966年にギャラガーは、地元コークでテイストを結成する(最初はザ・テイストと“ザ”が付いていた。)ボーカル&ギター担当のロリーを中心に据えたトリオだった。ギターの自由度を最大限に生かし、インプロヴィゼーションを重視したブルース・ロックが、彼らの目指すところだった。 そんな彼らを世間は、同じくトリオで、当時すでに大きな話題となっていたクリームの再来と称した。しかし、ギャラガーはハンブルク巡業時代にすでにトリオで活動していた。つまり、トリオという発想はギャラガーのほうが先だったのだ。
ところが1967年頃、アイルランドのダブリンでギャラガーのストラトが盗まれた。10日後に市内の公園で発見されたが、雨風に打たれたせいだろう、酷い状態になっていたそうだ。このことからギャラガーのストラトの塗装が剥げ落ちたのは、長年の使用によるものではなく、このときの事件によるものだと見る向きもある。
テイストは1968年にロンドンに進出するが、そこでギャラガー以外のメンバーチェンジが行われ第2期に突入した。彼らはクリームのマネージャーでもあるロバート・スティグウッドと契約を結び、その関係もあってか、1968年11月のロイヤル・アルバート・ホールでのクリーム解散コンサートでは前座を務めた。
テイストは1969年、同名アルバムでデビューを飾った。その人気ぶりは、マーキー・クラブの観客動員数を塗り替えたことや、ライヴを観たジョン・レノンが「素晴らしい才能を持った新人」と評したというエピソードからもうかがえる。またその年、ブラインド・フェイスのアメリカ・ツアーにフリーと共に同行した。
1970年には2nd『オン・ザ・ボード』を発表。その年のワイト島フェスティバルは亡くなる20日ほど前にジミ・ヘンドリックスが出演したことで有名だが、5回ものアンコールを受けたテイストのステージも伝説となっている。しかしその年いっぱいでバンドは解散、ギャラガーはソロ活動を開始した。
ソロ時代~絶頂期
1971年、『ロリー・ギャラガー』でソロ・デビューを飾ったギャラガーは、同年、早くも2作目『デュース』を発表した。これ以降、毎年恒例のようにヨーロッパとアメリカ・ツアーを行い、また、恩師アレクシス・コーナーからの推薦もあり、マディ・ウォーターズの『ロンドン・セッションズ』にも参加した。
翌1972年、ライヴ・アルバム『ライヴ・イン・ヨーロッパ』を発表、全英アルバムチャートで9位を記録するヒットとなった[3]。この年には、『メロディ・メイカー』誌によりトップ・ギタリスト・オブ・ザ・イヤーに選出された。
1973年には『ブループリント』と『タトゥー』を発表。この2作からキーボードが導入されている。また、この年にはジェリー・リー・ルイスの『ザ・ロンドン・セッション』にも参加している。
1974年にはアイルランド・ツアーを行い、その様子はトニー・パーマー監督によってフィルムに収められた。このツアーから、『ライヴ・イン・アイルランド』が生まれた。これは、世界で200万枚以上のセールスを上げる大ヒットとなった。そして、この年には初めて来日、東京、名古屋、大阪で公演が行われている。
翌1975年には、ポリドールからクリサリスに移籍し、『アゲインスト・ザ・グレイン』を発表。再び来日ツアーを行なった。スイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルのステージでアルバート・キングと共演したのもこの年のことだった。 この頃、ミック・テイラーの後任としてザ・ローリング・ストーンズに加入する話が持ち上がった。ギャラガーがそれを断った説、オーディションで落ちた説、契約寸前までいっていたとする説、また一緒にレコーディングをしたとする説など、一体どれが真実なのかわからないが、少なくともギャラガーに対してストーンズが強い興味を示し、しかしながらバンドへの加入は実現しなかった、ということだけは確かだ。 ちなみに同じ頃、ディープ・パープルを抜けたリッチー・ブラックモアの後釜に、デイヴィッド・カヴァデールは第一候補にジェフ・ベック、第二候補にギャラガーを考えていたという話もある(結局バンドにはトミー・ボーリンが加入した)。
1976年にはそのディープ・パープルのベーシスト、ロジャー・グローヴァーを共同プロデュースに迎えた『コーリング・カード』を発表した。
翌1977年には、ドイツのテレビ番組『ロックパラスト』に出演し、その模様はヨーロッパ全土にオンエアされた。また、3度目の来日公演も行なった。その後、再びトリオ編成に戻って、1978年には『フォト・フィニッシュ』、1979年には『トップ・プライオリティ』、1980年には『ステージ・ストラック』をリリース。また、ヨーロッパやアメリカ・ツアーなど、ライヴ活動も変わらず精力的に行っていた。
模索の時代~不遇の晩年
1982年に発表した『ジンクス』は、クリサリスとの契約最後のアルバムとなった。これをリリースし、ツアーを終えると、ギャラガーの活動は緩やかなものになっていく。ヤードバーズの元メンバーが結集したボックス・オブ・フロッグスの2枚のアルバムにゲスト参加したり、東欧の国々をツアーしたり、チャーリー・ワッツやジャック・ブルースらと共にエチオピア難民救済コンサートに出演したり、単発のライヴを行ったりなどはしていたが、決してこれまでのように精力的とは言い難い状況だった。
何よりも、ギャラガーはどこのレコード会社とも契約しておらず、そのため作品のリリースがなかった。 そのような状況が数年間続いたが、その結果として、自らレコード・レーベル、カポを設立した。
1987年に、カポから初めての、そしてギャラガーにとって5年ぶりとなるアルバム、『ディフェンダー』を発表した。その後、ヨーロッパ・ツアーにも出かけた。翌年にも、アイルランド、イギリス・ツアーを敢行。1989年にも何組かのアーティストのアルバムに参加したほか、ヨーロッパ数ヵ国でもライヴを行なった。
1990年には、『フレッシュ・エヴィデンス』を発表。イギリス・ツアーも行なった。また、モントルー・ジャズ・フェスティバルではジャック・ブルースとセッションもしている。そして、1991年には4度目の来日を果たし、その後オーストラリア、アメリカにも足を伸ばした。
1992年にはバンド・メンバーを一新。そのメンバーでのアルバム製作は行われなかったが、ライヴ活動は続けられた。とは言うものの、ギャラガーの活動はまた緩やかなものになっていった。この頃には、長年の飲酒癖のせいで、ギャラガーの体調はかなり悪くなっていった。 しかし、ギャラガーは1994年にヨーロッパ・ツアーを始めた。
そして1995年、ツアー先のオランダのロッテルダムで倒れた。ギャラガーの肝臓は限界まで来ていた。4月に肝臓移植手術を受けたが6月14日、その手術が原因となり合併症のため47歳で逝去した。
主な使用ギター
実際のギターの所有数は120本ほどだったらしく、またそれらすべてを使い分けていたと言われているがここではその中でもギャラガーが特に愛用した物を挙げる。
- 61年製フェンダー・ストラトキャスター(没後に発売されたギャラガーのシグネイチャー・モデルの元になった[4])
- 58年製フェンダー・ストラトキャスター(元はバディ・ホリーが所有していたもの)
- 59年製フェンダー・エスクワイヤー
- 60年代製ダンエレクトロ
- 63年製グレッチ・PX6134・コルベット(主に、ステージでのスライド用に使用)
- マーティンD-35
- 1930年製ナショナル・トライオリアン(スライド用のリゾネーター・ギター)
その他
- テイスト時代にギャラガーが使用していたこともあり、彼と日本のグヤトーンとは非常に関係が深かったらしく、76年発売のLG880マロリーはギャラガーが来日時にオーダーしたものがもとになって製作され、その後継機にあたる、LG1000グローリーのプロトタイプはギャラガーに渡されたといわれている。
- 1967年にイギリスのウィヴン・アビーで野外コンサート(現在のグラストンベリー・フェスティバルのようなもの)が行われた際、テイストはジミ・ヘンドリックスやティム・ローズ(ジミ・ヘンドリックスの代表曲"Hey Joe"の作者) と共に参加した。その時、ティム・ローズのバンドでドラムを担当していたのがジョン・ボーナムだった。当時既にギャラガーの大ファンだったボーナムは、その場で1曲だけギャラガーと演奏したという。
ディスコグラフィー
テイスト
- 1969年 テイスト - Taste
- 1970年 オン・ザ・ボード - On the Boards
- 1971年 ライヴ・テイスト - Live Taste
- 1972年 ワイト島のテイスト - Live at Isle of Wight
- 1974年 In the Beginning
- 1976年 Take It Easy Baby ※『In The Beginning』と内容は同じUS盤
- 1994年 The Best of Taste
ソロ
スタジオ・アルバム
- 1971年 ロリー・ギャラガー - Rory Gallagher
- 1971年 デュース - Deuce
- 1973年 ブループリント - Blueprint
- 1973年 タトゥー - Tattoo
- 1975年 アゲインスト・ザ・グレイン - Against the Grain
- 1976年 コーリング・カード - Calling Card
- 1978年 フォト・フィニッシュPhoto Finish
- 1979年 トップ・プライオリティ - Top Priority
- 1982年 ジンクス - Jinx
- 1988年 ディフェンダー - Defender
- 1991年 フレッシュ・エヴィデンス - Fresh Evidence
ライヴ・アルバム
- 1972年 ライヴ・イン・ヨーロッパ - Live in Europe
- 1974年 ライヴ・イン・アイルランド - Irish Tour'74
- 1980年 ステージ・ストラック - Stage Struck
- 2001年 Let's Go to Work
- 2003年 ミーティング・ウィズ・ザ・G-マン - Meeting With the G-Man
- 2006年 ライヴ・アット・モントルー - Live at Montreux
コンピレーション・アルバム
- 1974年 The Story So Far
- 1975年 Sinner... and Saint
- 1992年 The G-Man Bootleg Series Vol.1
- 1992年 Etched in Blue
- 1995年 A Blue Day for the Blues
- 1995年 Last of the Independents
- 1999年 BBCライヴ - BBC Sessions
- 2003年 ホイールズ・ウィズイン・ホイールズ - Wheels Within Wheels
- 2005年 ビッグ・ガンズ - ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ロリー・ギャラガー - Big Guns: The Very Best of Rory Gallagher
- 2019年 Blues
日本公演
メルパルクホール東京
脚注
- ^ “JOHNNY MARR PLAYS RORY GALLAGHER’S STRAT”. Fender (2013年2月28日). 2015年2月3日閲覧。
- ^ グレン・ティプトン公式サイト
- ^ “RORY GALLAGHER - full Official Chart History”. Official Charts Company. 2017年10月25日閲覧。
- ^ “Rory Gallagher Signature Stratocaster® - Atrtist Series”. Fender Musical Instruments. 2017年10月25日閲覧。