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ボナーはアイルランド共和国[[ドニゴール県]]のクロウグラスで生まれた。[[イングランド]]の[[レスター・シティ]]の下部組織でサッカーを学び、1978年5月14日に[[スコティッシュ・プレミアリーグ]]の[[セルティックFC]]へ入団した。ボナーはデビュー以来、一貫してセルティックでプレーを続けリーグ通算483試合出場を含め642試合に出場した。セルティックではリーグ優勝5回 (1979, 1981, 1982, 1986, 1988) 、[[スコティッシュカップ]]優勝5回 (1980, 1985, 1988, 1989, 1995) に貢献した。そして1995年のスコティッシュ・カップ決勝を最後に現役を引退した。 |
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[[サッカーアイルランド共和国代表|アイルランド代表]]としては、1981年5月24日に敵地の[[ブィドゴシュチュ]]で行われた[[サッカーポーランド代表|ポーランド]]戦で代表デビュー。同国は1980年代後半からジャッキー・チャールトン監督の指導の下で急速に実力を付け、1988年の[[UEFA欧州選手権1988]]では[[サッカーイングランド代表|イングランド]]を下し、優勝した[[サッカーオランダ代表|オランダ]]をギリギリまで追い詰めるなど旋風を起こした。続く1990年の[[1990 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・イタリア大会]]ではベスト8進出、1994年の[[1994 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・アメリカ大会]]では1次リーグ初戦で[[サッカーイタリア代表|イタリア]]を破る活躍でベスト16進出を成し遂げた。ボナーは1995年に代表から退くまで国際Aマッチ80試合に出場した。 |
[[サッカーアイルランド共和国代表|アイルランド代表]]としては、1981年5月24日に敵地の[[ブィドゴシュチュ]]で行われた[[サッカーポーランド代表|ポーランド]]戦で代表デビュー。同国は1980年代後半からジャッキー・チャールトン監督の指導の下で急速に実力を付け、1988年の[[UEFA欧州選手権1988]]では[[サッカーイングランド代表|イングランド]]を下し、優勝した[[サッカーオランダ代表|オランダ]]をギリギリまで追い詰めるなど旋風を起こした。続く1990年の[[1990 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・イタリア大会]]ではベスト8進出、1994年の[[1994 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・アメリカ大会]]では1次リーグ初戦で[[サッカーイタリア代表|イタリア]]を破る活躍でベスト16進出を成し遂げた。ボナーは1995年に代表から退くまで国際Aマッチ80試合に出場した。 |
2020年8月30日 (日) 23:45時点における版
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名前 | ||||||
本名 |
パトリック・ジョセフ・ボナー Patrick Joseph Bonner | |||||
ラテン文字 | Pat Bonner | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アイルランド | |||||
生年月日 | 1960年5月24日(64歳) | |||||
出身地 | クロウグラス | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1978-1995 | セルティックFC | 483 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
1981-1995 | アイルランド | 80 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
パトリック・ジョセフ"パット"ボナー(Patrick Joseph "Pat" Bonner, 1960年5月24日 - )は、アイルランドの元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはGK。
経歴
ボナーはアイルランド共和国ドニゴール県のクロウグラスで生まれた。イングランドのレスター・シティの下部組織でサッカーを学び、1978年5月14日にスコティッシュ・プレミアリーグのセルティックFCへ入団した。ボナーはデビュー以来、一貫してセルティックでプレーを続けリーグ通算483試合出場を含め642試合に出場した。セルティックではリーグ優勝5回 (1979, 1981, 1982, 1986, 1988) 、スコティッシュカップ優勝5回 (1980, 1985, 1988, 1989, 1995) に貢献した。そして1995年のスコティッシュ・カップ決勝を最後に現役を引退した。
アイルランド代表としては、1981年5月24日に敵地のブィドゴシュチュで行われたポーランド戦で代表デビュー。同国は1980年代後半からジャッキー・チャールトン監督の指導の下で急速に実力を付け、1988年のUEFA欧州選手権1988ではイングランドを下し、優勝したオランダをギリギリまで追い詰めるなど旋風を起こした。続く1990年のFIFAワールドカップ・イタリア大会ではベスト8進出、1994年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会では1次リーグ初戦でイタリアを破る活躍でベスト16進出を成し遂げた。ボナーは1995年に代表から退くまで国際Aマッチ80試合に出場した。
引退後は指導者の道へ進み、アイルランドサッカー協会でゴールキーパーコーチを担当していたが、2003年2月2日に同協会のテクニカルディレクターに就任した。また、彼はTV3アイルランドのサッカー解説者としても活躍している。
エピソード
- 息子のアンドリュー・ボナーもサッカー選手で、父親とは違いFWとしてプレーをしている。
- アイルランド代表として出場した1990年のW杯イタリア大会で、対エジプト戦(結果は0対0の引き分け)の試合終盤に行った時間稼ぎ行為が、1992年のバックパス・ルール設定に影響したとされている。