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17世紀中期、[[アイルランド王国]]で生まれた。叙爵の特許状では[[スライゴ州]]出身とされたものの、[[メイヨー県]]の出身とする説もある<ref name="DNB1900">{{Cite DNB|wstitle=O'Hara, Charles (1640?-1724)|volume=42|pages=60-61|last=Balkiston|first=Herbert Edward Douglas|authorlink=ハーバート・エドワード・ダグラス・ブラキストン}}</ref>。1675年に渡仏して[[ジェームズ・バトラー (第2代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]](後の第2代オーモンド公爵)に乗馬を教えたとされ、1678年にヨーク公の歩兵連隊での辞令を得て大尉として入隊した<ref name="odnb">{{Cite ODNB|id=20632|title=O'Hara, Charles, first Baron Tyrawley|last=Childs|first=John}}</ref>。1679年に英蘭旅団に転じ、1686年に[[グレナディアガーズ|近衛歩兵第一連隊]]に転じた<ref name="odnb" />。1689年、同連隊の中佐になった<ref name="odnb" />。 |
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2020年8月30日 (日) 23:31時点における版
初代ティローリー男爵チャールズ・オハラ中将(英語: Charles O'Hara, 1st Baron Tyrawley、1650年頃 - 1724年6月9日)は、アイルランド王国出身のイギリス陸軍軍人。アイルランド軍総指揮官を務めたことで知られる(在任:1714年 - 1721年)。
生涯
17世紀中期、アイルランド王国で生まれた。叙爵の特許状ではスライゴ州出身とされたものの、メイヨー県の出身とする説もある[1]。1675年に渡仏してジェームズ・バトラー(後の第2代オーモンド公爵)に乗馬を教えたとされ、1678年にヨーク公の歩兵連隊での辞令を得て大尉として入隊した[2]。1679年に英蘭旅団に転じ、1686年に近衛歩兵第一連隊に転じた[2]。1689年、同連隊の中佐になった[2]。
スペイン継承戦争中の1702年にカディスに向かい、ビーゴ湾の海戦で戦功を立てたが、帰国の道中に略奪に働いたとして逮捕された[2]。後に無罪放免されてスペインにおける副総指揮官に任命され、フランス軍のグアダラハラ攻撃を阻止してティローリー男爵に叙された[2]。1707年のアルマンサの戦いでは左翼を率いた[2]。戦闘で負傷したものの騎兵とともにトゥルトーザまで退き、翌年までに帰国した[1]。
1710年5月25日に貴族院議員に就任、枢密顧問官に任命された後、1714年に国王ジョージ1世によって再び枢密顧問官に任命された[1]。
1714年11月6日、連隊長の職を息子に譲った後アイルランド軍総指揮官に任命され[3]、1721年まで務めた[1]。1724年6月8日/9日に死去、11日にダブリンで埋葬された[1]。
家族
フランシス・ローズ(Frances Rouse、1738年11月10日没)と結婚して1男1女をもうけた[1]。
- ジェームズ(1682年 - 1774年) - 第2代ティローリー男爵
- メアリー(1759年没)
脚注
- ^ a b c d e f Balkiston, Herbert Edward Douglas (1895). . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 42. London: Smith, Elder & Co. pp. 60–61.
- ^ a b c d e f Childs, John. "O'Hara, Charles, first Baron Tyrawley". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/20632。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ "No. 5275". The London Gazette (英語). 6 November 1714. p. 2.
軍職 | ||
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先代 エドワード・フィッツパトリック |
兵站連隊長 1696年 - 1713年 |
次代 ジェームズ・オハラ |
先代 ウィリアム・ステュアート |
アイルランド軍総指揮官 1714年 - 1721年 |
次代 シャノン子爵 |
アイルランドの爵位 | ||
爵位創設 | ティローリー男爵 1706年 - 1724年 |
次代 ジェームズ・オハラ |