「オズボーン・ボークラーク (第12代セント・オールバンズ公)」の版間の差分
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[[イートン校]]に学んだのち、イギリス陸軍に入隊して[[ボーア戦争]]に従軍した<ref name="burke">{{cite book|title=Burke's Peerage, Baronetage & Knighthood|publisher=Burke's Peerage & Gentry|editor=Mosley, Charles|edition=107|year=2003|page=3461|pages=|ref=Burke|isbn=0-9711966-2-1}}</ref>。戦争中の1901年に{{仮リンク|第17槍騎兵連隊|en|17th_Lancers}}付大尉に昇進、1901年12月に本国に帰還した<ref>{{Cite newspaper The Times||articlename=The War - officers returning home|day_of_week=Tuesday|date=3 December 1901|page_number=10|issue=36628}}</ref>。帰国後、1902年9月に一旦陸軍を辞している<ref>{{London Gazette|issue=27476|page=6078|date=23 September 1902}}</ref>。[[第一次世界大戦]]が勃発するとオズボーンは再招集を受け、[[ダグラス・ヘイグ]]将軍の副官に就任している<ref name=":0" /><ref name="burke" />。 |
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1920年に[[ウォーターフォード県]]長官を務めた<ref name=":0" /><ref name="burke" />。1934年に異母兄[[チャールズ・ボークラーク_(第11代セント・オールバンズ公)|チャールズ]]が亡くなると、セント・オールバンズ公爵を継承した<ref name=":0" /><ref name="burke" />。1964年に嗣子のないまま89歳で亡くなると、彼たっての希望で公爵家墓地ではなく母の故郷である[[ティペラリー県]]ニュータウン・アナー(Newtown Anner)の墓地に埋葬された<ref name=":0" /><ref name=":1">{{Cite book|和書||year=1987|title=英国の貴族 遅れてきた公爵|author=[[森護]]|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469240979|ref=harv|date=|pages=182-183}}</ref>。 |
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爵位は[[ウィリアム・ボークラーク (第8代セント・オールバンズ公爵)|第8代セント・オールバンズ公爵]]の子孫にまで遡って、その曾孫チャールズに相続された<ref name=":0" /><ref name="burke" />。 |
2020年8月30日 (日) 23:16時点における版
オズボーン・ボークラーク Osborne Beauclerk | |
---|---|
第12代セント・オールバンズ公 | |
在位 | 1934年 - 1964年 |
出生 |
1874年10月16日 |
死去 |
1964年3月2日(89歳没) |
埋葬 | アイルランド、ティペラリー県、ニュータウン・アナー |
配偶者 | ベアトリクス・フランセス・ペティ=フィッツモーリス |
家名 | ボークラーク家 |
父親 | 第10代セント・オールバンズ公爵ウィリアム・ボークラーク |
母親 | グレイス・バーナル=オズボーン |
第12代セント・オールバンズ公爵オズボーン・ド・ヴィアー・ボークラーク(英語: Osborne de Vere Beauclerk, 12th Duke of St Albans、1874年10月16日 - 1964年3月2日)は、イギリスの貴族、イギリス陸軍軍人。出生から1934年までオズボーン・ボークラーク卿を称した。
生涯
第10代セント・オールバンズ公爵ウィリアム・ボークラークと後妻グレイス・バーナル=オズボーン(Grace Bernal-Osborne、庶民院議員ラルフ・バーナル=オズボーンの次女)との息子として生まれた[1][2]。
イートン校に学んだのち、イギリス陸軍に入隊してボーア戦争に従軍した[2]。戦争中の1901年に第17槍騎兵連隊付大尉に昇進、1901年12月に本国に帰還した[3]。帰国後、1902年9月に一旦陸軍を辞している[4]。第一次世界大戦が勃発するとオズボーンは再招集を受け、ダグラス・ヘイグ将軍の副官に就任している[1][2]。
1920年にウォーターフォード県長官を務めた[1][2]。1934年に異母兄チャールズが亡くなると、セント・オールバンズ公爵を継承した[1][2]。1964年に嗣子のないまま89歳で亡くなると、彼たっての希望で公爵家墓地ではなく母の故郷であるティペラリー県ニュータウン・アナー(Newtown Anner)の墓地に埋葬された[1][5]。
爵位は第8代セント・オールバンズ公爵の子孫にまで遡って、その曾孫チャールズに相続された[1][2]。
人物
- 教会礼拝時、説教の最中にハンカチで顔を覆って居眠りをしているふりをしたり、『下らぬ』とヤジを飛ばすことがあったという[5]。
- 知人宅を単に訪れるだけであっても、必ず自分用の歯ブラシとパジャマを紙袋に入れて持参する癖があった[5]。
- レストランで食事中に火事が起こった際には一人だけ逃げ出さず、頑なに注文したトーストを持ってくるよう命じて居座り続けた。見かねた店員が彼を窓から放り出したため、軽傷で済んだ[5]。
家族
1918年8月19日にベアトリクス・フランセス・ペティ=フィッツモーリス(Beatrix Frances Petty-FitzMaurice、生年未詳 - 1953年8月5日、第5代ランズダウン侯爵の娘)と結婚したが、夫妻に子供はなかった[1][2]。
出典
- ^ a b c d e f g “St Albans, Duke of (E, 1683/4)”. www.cracroftspeerage.co.uk. 2020年5月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g Mosley, Charles, ed (2003). Burke's Peerage, Baronetage & Knighthood (107 ed.). Burke's Peerage & Gentry. p. 3461. ISBN 0-9711966-2-1
- ^ "The War - officers returning home". The Times (英語). No. 36628. London. 3 December 1901. p. 10.
- ^ "No. 27476". The London Gazette (英語). 23 September 1902. p. 6078.
- ^ a b c d 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年、182-183頁。ISBN 978-4469240979。
イングランドの爵位 | ||
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先代 チャールズ・ボークラーク |
セント・オールバンズ公爵 1934年 - 1964年 |
次代 チャールズ・ボークラーク |