「アーチボルド・プリムローズ (第4代ローズベリー伯爵)」の版間の差分
m Bot作業依頼: アイルランド島における32県の改名に伴うリンク修正依頼 (ティペラリー県) - log |
|||
5行目: | 5行目: | ||
[[ケンブリッジ大学]][[ペンブルック・カレッジ]]で学び、1804年に[[学位]]({{interlang|en|Master of Arts (Oxbridge and Dublin)|M.A.}})を取得<ref name="Venn">{{Venn |id= PRMS801AJ |name= Primrose, Archibald John (Lord Dalmeny). }}</ref>。1819年には同大学から名誉[[法学博士]]号([[LL.D.]])を授与された<ref name="Venn" /><ref name="Paul" /><ref name="DNB" />。 |
[[ケンブリッジ大学]][[ペンブルック・カレッジ]]で学び、1804年に[[学位]]({{interlang|en|Master of Arts (Oxbridge and Dublin)|M.A.}})を取得<ref name="Venn">{{Venn |id= PRMS801AJ |name= Primrose, Archibald John (Lord Dalmeny). }}</ref>。1819年には同大学から名誉[[法学博士]]号([[LL.D.]])を授与された<ref name="Venn" /><ref name="Paul" /><ref name="DNB" />。 |
||
1805年から[[コーンウォール]]州{{仮リンク|ヘルストン (イングランド)|en|Helston|label=ヘルストン}}選挙区選出の、1806年から翌1807年まで[[ティペラリー |
1805年から[[コーンウォール]]州{{仮リンク|ヘルストン (イングランド)|en|Helston|label=ヘルストン}}選挙区選出の、1806年から翌1807年まで[[ティペラリー県]]{{仮リンク|カシェル (ティペラリー州)|en|Cashel, County Tipperary|label=カシェル}}選挙区選出の[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]所属[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員<ref name="histparl">{{cite encyclopedia |last= Thorne |first= R. G. |authorlink= |editor-first= R. G. |editor-last = Thorne |encyclopedia= [[:en:The History of Parliament|The History of Parliament: the House of Commons 1790-1820]] |title= PRIMROSE, Archibald John, Visct. Primrose (1783-1868). |url= https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1790-1820/member/primrose-archibald-john-1783-1868 |accessdate=2013-07-06 |edition= |year= 1986 |publisher= Boydell and Brewer |volume= |location= [[ロンドン|London]] }}</ref>。 |
||
1814年に父親が死去したため爵位を相続し、第4代ローズベリー伯爵となる。1818年・1820年・1826年の三度にわたって[[スコットランド]]の[[貴族代表議員]]として[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国]]の[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員を務めた後<ref name="histparl" />、1828年に[[連合王国貴族]]「[[エディンバラ|カウンティ・オヴ・エディンバラ]]におけるローズベリーの'''ローズベリー男爵'''({{lang|en|'''Baron Rosebery''', of Rosebery in the County of Edinburgh}})」に叙された<ref>{{LondonGazette |issue = 18433 |date = 18 January 1828 |startpage = 122 |accessdate = 2013-07-06 }}</ref>。ホイッグ党員として彼は、1832年の[[第1回選挙法改正]]({{interlang|en|Reform Act 1832}}; [[1832年選挙法改正法]])を支持していた<ref name="histparl" /><ref name="DNB" />。また1843年に[[ウェスト・ロージアン統監|リンリスゴウシャー統監]]({{interlang|en|Lord Lieutenant of West Lothian|Lord Lieutenant of Linlithgowshire}})に任じられ<ref>{{LondonGazette |issue = 20215 |date = 21 April 1843 |startpage = 1311 |accessdate = 2013-07-06 }}</ref>、1863年まで在職した<ref name="Paul" /><ref name="DNB" />。 |
1814年に父親が死去したため爵位を相続し、第4代ローズベリー伯爵となる。1818年・1820年・1826年の三度にわたって[[スコットランド]]の[[貴族代表議員]]として[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国]]の[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員を務めた後<ref name="histparl" />、1828年に[[連合王国貴族]]「[[エディンバラ|カウンティ・オヴ・エディンバラ]]におけるローズベリーの'''ローズベリー男爵'''({{lang|en|'''Baron Rosebery''', of Rosebery in the County of Edinburgh}})」に叙された<ref>{{LondonGazette |issue = 18433 |date = 18 January 1828 |startpage = 122 |accessdate = 2013-07-06 }}</ref>。ホイッグ党員として彼は、1832年の[[第1回選挙法改正]]({{interlang|en|Reform Act 1832}}; [[1832年選挙法改正法]])を支持していた<ref name="histparl" /><ref name="DNB" />。また1843年に[[ウェスト・ロージアン統監|リンリスゴウシャー統監]]({{interlang|en|Lord Lieutenant of West Lothian|Lord Lieutenant of Linlithgowshire}})に任じられ<ref>{{LondonGazette |issue = 20215 |date = 21 April 1843 |startpage = 1311 |accessdate = 2013-07-06 }}</ref>、1863年まで在職した<ref name="Paul" /><ref name="DNB" />。 |
2020年8月30日 (日) 23:09時点における版
第4代ローズベリー伯爵アーチボルド・ジョン・プリムローズ(英: Archibald John Primrose, 4th Earl of Rosebery、1783年10月14日 - 1868年3月4日)は、イギリスの貴族。アザミ勲章勲爵士(KT)、枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS)。
スコットランド貴族である第3代ローズベリー伯爵ニール・プリムローズの長男として、スコットランド・リンリスゴウシャー州にあるバーンボーグル城で生まれた[1][2]。 ケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジで学び、1804年に学位(M.A.)を取得[3]。1819年には同大学から名誉法学博士号(LL.D.)を授与された[3][1][2]。
1805年からコーンウォール州ヘルストン選挙区選出の、1806年から翌1807年までティペラリー県カシェル選挙区選出のホイッグ党所属庶民院議員[4]。
1814年に父親が死去したため爵位を相続し、第4代ローズベリー伯爵となる。1818年・1820年・1826年の三度にわたってスコットランドの貴族代表議員としてグレートブリテン及びアイルランド連合王国の貴族院議員を務めた後[4]、1828年に連合王国貴族「カウンティ・オヴ・エディンバラにおけるローズベリーのローズベリー男爵(Baron Rosebery, of Rosebery in the County of Edinburgh)」に叙された[5]。ホイッグ党員として彼は、1832年の第1回選挙法改正(Reform Act 1832; 1832年選挙法改正法)を支持していた[4][2]。また1843年にリンリスゴウシャー統監(Lord Lieutenant of Linlithgowshire)に任じられ[6]、1863年まで在職した[1][2]。
1831年に枢密顧問官に列せられ[7]、1840年にアザミ勲章を受勲[8]。1819年には王立協会フェローに選出されている[9]。
ロンドンのピカデリーで1868年に死去し、爵位は孫のダルメニー卿アーチボルド・プリムローズに継承された[1][2]。
家族
ローズベリーは2度結婚している。最初の妻である初代ラドナー伯爵ウィリアム・ブーヴェリーの孫ハリエット・ブーヴェリーとは1808年5月20日にロンドンのメリルボーンで結婚した[1]。彼女との間に二男二女をもうけた。
- ダルメニー卿アーチボルド・プリムローズ (1809年 - 1851年) - 庶民院議員、海軍本部委員。第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズの父
- レディ・ハリエット・プリムローズ (1810年 - )
- レディ・メアリ・アン・プリムローズ (1812年 - 1826年)
- オナラブル・ブーヴェリー・フランシス・プリムローズ (1813年 - 1898年)
1815年にハリエットと離婚した後、1819年8月12日に初代アンソン子爵トマス・アンソンの娘アン・マーガレット・アンソンと再婚した[1][2]。彼女との間には二女をもうけた。
- レディ・アン・プリムローズ (1820年 - 1862年)
- レディ・ルイーザ・プリムローズ (1822年 - 1870年)
出典
- ^ a b c d e f Paul, James Balfour, Sir [in 英語], ed. (1910). "PRIMROSE, EARL OF ROSEBERY". The Scots peerage. Vol. 7. Edinburgh: David Douglas. pp. 225–227. 2013年7月6日閲覧。
- ^ a b c d e f Henderson, Thomas Finlayson (1896). Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 46. London: Smith, Elder & Co. pp. 379–380. . In
- ^ a b "Primrose, Archibald John (Lord Dalmeny). (PRMS801AJ)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ a b c Thorne, R. G. (1986). "PRIMROSE, Archibald John, Visct. Primrose (1783-1868).". In Thorne, R. G. (ed.). The History of Parliament: the House of Commons 1790-1820. London: Boydell and Brewer. 2013年7月6日閲覧。
- ^ "No. 18433". The London Gazette (英語). 18 January 1828. 2013年7月6日閲覧。
- ^ "No. 20215". The London Gazette (英語). 21 April 1843. 2013年7月6日閲覧。
- ^ "No. 18779". The London Gazette (英語). 25 February 1831. 2013年7月6日閲覧。
- ^ "No. 19837". The London Gazette (英語). 20 March 1840. 2013年7月6日閲覧。
- ^ "Primrose; Archibald John (1783 - 1868); 4th Earl of Rosebery". Record (英語). The Royal Society. 2013年7月6日閲覧。
外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr Archibald Primrose
- "アーチボルド・プリムローズの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
- アーチボルド・プリムローズ - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
|
|
|