「シャクルトン=ローウェット遠征」の版間の差分
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フランク・ワイルドは、シャクルトンと行く4度目の旅であり、''エンデュアランス''の時と同様に副隊長になった。''エンデュアランス''の船長だった[[フランク・ワースリー]]が、''クエスト''の船長になった。その他昔からの仲間には、アレクサンダー・マクリンとジェイムズ・マキルロイの2人の船医、気象学者のレナード・ハッシー、機関士のアレクサンダー・カー、水夫のトム・マクロードとコックのチャールズ・グリーンが居た<ref name= Huntford684/>。シャクルトンは[[トム・クリーン]]が契約すると見なし、「ボートの担当」を割り振っていたが<ref name= Smith308/>、クリーンは海軍を退役して[[アイルランド]]の[[ケリー |
フランク・ワイルドは、シャクルトンと行く4度目の旅であり、''エンデュアランス''の時と同様に副隊長になった。''エンデュアランス''の船長だった[[フランク・ワースリー]]が、''クエスト''の船長になった。その他昔からの仲間には、アレクサンダー・マクリンとジェイムズ・マキルロイの2人の船医、気象学者のレナード・ハッシー、機関士のアレクサンダー・カー、水夫のトム・マクロードとコックのチャールズ・グリーンが居た<ref name= Huntford684/>。シャクルトンは[[トム・クリーン]]が契約すると見なし、「ボートの担当」を割り振っていたが<ref name= Smith308/>、クリーンは海軍を退役して[[アイルランド]]の[[ケリー県]]で家庭生活に入り、シャクルトンの招請を辞退した<ref name= Smith308>Smith, p. 308</ref>。£×××××××××××××××××××**************************/\××××××××××.%/\£_&"" |
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新参者としては、[[ニュージーランド]]生まれの[[イギリス空軍]]パイロットのロデリック・カーが、遠征隊の飛行機アブロ・"アンタークティック"・ベイビーを操縦するために雇われた。アブロ・ベイビー機は80馬力のエンジンを付け水上機として改装されたものだった<ref>Riffenburgh, p. 892</ref><ref>Verdon-Roe, p. 258</ref>。北ロシアでシャクルトンと出逢い、つい近年まで[[リトアニア]]の空軍で参謀長として仕えていた<ref>Carr subsequently had a distinguished Royal Air Force career, rising to the rank of Air Marshal and becoming Deputy Chief of Staff (Air) to SHAEF in 1945. Fisher, p. 489</ref>。実際には、部品が幾らか足りなかったために、この飛行機が遠征中に使われることは無かった。カーは科学的作業を助けた<ref name= Fisher451>Fisher, pp. 451–53</ref>。科学スタッフには、オーストラリアの生物学者で南極の経験があったヒューバート・ウィルキンス、カナダの地質学者で当初はボーフォート海遠征のために契約していたビバート・ダグラスがいた<ref name= Fisher451/>。大衆の注目を集めた応募者は、[[ボーイスカウト]]の隊員だったノーマン・ムーニーとジェイムズ・マーの2人だった。新聞「[[デイリー・メール]]」が打った広告の結果として、応募してきた1,700人のスカウトの中からこの2人が選出された<ref>Fisher, p. 454</ref>。ムーニーは[[オークニー諸島]]の出身であり、慢性的に船酔いを味わったために、[[マデイラ]]で船を降りた<ref name= Wild32>Wild, p. 32</ref>。マーは[[アバディーン]]出身の18歳であり、遠征全体に参加し、シャクルトンとワイルドから応募してきたことを称賛された。船の石炭庫任務に付けられた後、ワイルドに拠れば、マーは「試用の段階をうまくこなし、注目すべき不屈さと忍耐強さを示した」とされていた<ref name= Wild32/>。 |
新参者としては、[[ニュージーランド]]生まれの[[イギリス空軍]]パイロットのロデリック・カーが、遠征隊の飛行機アブロ・"アンタークティック"・ベイビーを操縦するために雇われた。アブロ・ベイビー機は80馬力のエンジンを付け水上機として改装されたものだった<ref>Riffenburgh, p. 892</ref><ref>Verdon-Roe, p. 258</ref>。北ロシアでシャクルトンと出逢い、つい近年まで[[リトアニア]]の空軍で参謀長として仕えていた<ref>Carr subsequently had a distinguished Royal Air Force career, rising to the rank of Air Marshal and becoming Deputy Chief of Staff (Air) to SHAEF in 1945. Fisher, p. 489</ref>。実際には、部品が幾らか足りなかったために、この飛行機が遠征中に使われることは無かった。カーは科学的作業を助けた<ref name= Fisher451>Fisher, pp. 451–53</ref>。科学スタッフには、オーストラリアの生物学者で南極の経験があったヒューバート・ウィルキンス、カナダの地質学者で当初はボーフォート海遠征のために契約していたビバート・ダグラスがいた<ref name= Fisher451/>。大衆の注目を集めた応募者は、[[ボーイスカウト]]の隊員だったノーマン・ムーニーとジェイムズ・マーの2人だった。新聞「[[デイリー・メール]]」が打った広告の結果として、応募してきた1,700人のスカウトの中からこの2人が選出された<ref>Fisher, p. 454</ref>。ムーニーは[[オークニー諸島]]の出身であり、慢性的に船酔いを味わったために、[[マデイラ]]で船を降りた<ref name= Wild32>Wild, p. 32</ref>。マーは[[アバディーン]]出身の18歳であり、遠征全体に参加し、シャクルトンとワイルドから応募してきたことを称賛された。船の石炭庫任務に付けられた後、ワイルドに拠れば、マーは「試用の段階をうまくこなし、注目すべき不屈さと忍耐強さを示した」とされていた<ref name= Wild32/>。 |
2020年8月30日 (日) 22:58時点における版
シャクルトン=ローウェット遠征(シャクルトン=ローウェットえんせい、英: Shackleton–Rowett Expedition)は、1921年から1922年に行われたアーネスト・シャクルトンの最後の南極遠征であり、南極探検の英雄時代と呼ばれる時代の最後を告げるものになった。この事業には実業家のジョン・クイラー・ローウェットが出資した。シャクルトンの当初の計画は、北極海のボーフォート海を探検することだったが、カナダ政府が財政援助を取り下げたことで中止された。遠征に用いた船はノルウェーのアザラシ漁船を転換したクエストであり、クエスト遠征と呼ばれることもある。このクエストはそれまでの南極探検船と比べて小さく、直ぐにその任務には不適切なことが分かった。その航行性能の悪さと、たびたび起こったエンジントラブルにより、南行きが遅れた。遠征の作業が適切に始められる前、亜南極のサウスジョージア島に到着した直後に、船上にあったシャクルトンが死んだ。
その後縮小された遠征の主要部は、副隊長のフランク・ワイルドの指揮で、南極大陸東部を3か月間巡航した。この海域で、クエストの性能不足が直ぐに明らかになった。速度が鈍く、燃料を多く消費し、荒海では横揺れが激しく、常に漏水があった。東の目標にしていた地点よりはるか手前の東経20度より先には進めず、低出力エンジンでは南極の氷に分け入っていくことも難しかった。叢氷を割って南に進もうと何度か試みたが果たせず、ワイルドは船をサウスジョージアに戻したが、その前にエレファント島を訪れた。この島は6年前のシャクルトンが指揮した帝国南極横断探検隊で、エンデュアランスが沈没した後にワイルド他22名が取り残された所だった。
ワイルドは2年目の氷の状態がよいシーズンを期待して、いったんケープタウンまで再艤装のために船を戻した。そこでローウェットからイングランドに戻るようメッセージを受け取ったので、遠征を静かに中断した。この遠征は極圏探検の歴史の中で特に注目されることも無いが、英雄時代の終わりと、それに続く「機械化時代」の始まりを告げるものとして意味がある。しかし、この遠征を大衆に記憶させ、その全ての活動に影を落とさせたのは、シャクルトンの早すぎる死だった。
背景
エンデュアランス遠征の後
シャクルトンはエンデュアランス遠征で様々に孤立した隊員を救援するために貢献した後、1917年遅くにイギリスに戻って来た。時あたかも第一次世界大戦が激しさを増していた時だった。従軍するには年を取り過ぎていたが、それでも戦争遂行のための現役任務を求め[1]、北ロシアへの軍事任務の一部として、暫定少佐の資格を得てムルマンスクに向けて出発した。この任務はシャクルトンを満足させず、家に送った手紙では「私は荒野で嵐に直面しているのでなければ、誰の役にも立たない」と不満を表明していた[2]。1919年2月にイングランドに戻り、北ロシア政府との協業により、その地域の天然資源を開発する会社の設立計画を策定し始めた[3]。この計画は、ロシア内戦の間に赤軍がその地域をロシアの一部として支配したために、実行できず、シャクルトンは収入の道として巡回講演を行うしかなくなった。1919年から1920年に掛けての冬、ロンドンのグレートポートランド通りにあるフィルハーモニック・ホールで、シャクルトンは1日2回、週6日、5か月間講演した[4]。これと同時期に、エンデュアランス遠征の莫大な借金がまだ残っていたが、新しい探検事業の計画を立てはじめていた[4]。
カナダの提案
シャクルトンは南極から北に目を向けることにし、「ボーフォート海と呼ばれる大きな空白地帯を埋める」ことにした[5]。北極海のこの地域は、アラスカ州の北、カナダ北極多島海の西にあり、ほとんど探検されていなかった。シャクルトンは、潮汐の記録を元に、この海には未発見の陸地があり、「世界にとっては、経済価値の可能性以外にも最大級の科学的興味がある」と考えていた[5]。また北極海の最も陸から遠い地点である北到達不能極に達する期待もあった[6]。1920年3月、その計画が王立地理学会の総論承認を得て、カナダ政府の支持も得た。これをもとにシャクルトンは、5万ポンド(2008年換算で160万ポンド)と推算した必要な資金の調達に取り掛かった[5][7]。その年の後半、シャクルトンは偶然昔の級友ジョン・クイラー・ローウェットと出逢い、シャクルトンが計画に取り掛かることを可能にする中核となる金を出すという合意を貰った。1921年1月、シャクルトンはこの金をもとに、ノルウェーの木造捕鯨船フォカIを取得し、さらにその他の装置を購入し、乗組員を雇用する段階に進んだ[5]。
1921年5月、カナダの計画が放棄された。この遠征の資金を出すというカナダ政府の方針は、新首相アーサー・ミーエンがシャクルトンの提案への支持を取り消したことで、変更された[8]。シャクルトンの反応は遠征そのものを取り消すことではなく、その方向を変えることだった。5月半ば、シャクルトンの仲間で、カナダでは犬の購入の交渉に当たっていたアレクサンダー・マクリンが、目的地は南極にするということを知らせる電報を受け取った。ボーフォート海探検の代わりに、南極海での修正された探検計画、海岸の地図化、鉱物資源の探索、海洋学研究が提示されていた[5]。
南極探検
目的
シャクルトンはカナダ政府との行き詰まりに直面する前であっても、ボーフォート海に対する代案として、南への遠征を検討していた。王立地理学会司書のヒュー・ロバート・ミルに拠れば、1920年3月には既に2つの可能性ある計画について言及していた。すなわち、ボーフォート海探検と、「南極海と南太平洋のあまり知られていない島々全てを訪れる目的で海洋学的遠征を行うこと」があった[9]。1921年6月までに、南極大陸の周航と約2,000マイル (3,200 km) の海図が無い海岸線の地図化まで拡大されていた。「失われた」あるいは誤って地図化されていた亜南極の諸島の調査も含まれていた。これにはドゥアティ島、トゥアナキ諸島、ニムロド諸島があった[10][11]。さらにこれらの諸島が再発見された場合に、鉱物資源の調査や周辺の科学的探査計画があった[12]。またゴフ島周辺で「アフリカとアメリカを繋ぐ海底大陸」と言われるものを探索する調査も含まれていた[13]。シャクルトンの伝記作者マージェリー・フィッシャーはこの計画を「拡散」と呼び、「あまりに包括的過ぎて、少数の者達が2年間で取り組むことは不可能」と言っている[12]。別の伝記作者ロランド・ハントフォードに拠れば、この遠征に明確な目標は無く、「(シャクルトンにとって)脱出のためのあまりに明らかな1篇のアドリブ、口実に過ぎない」としている[14]。
フィッシャーはこの遠征を「南極探検の英雄時代と呼ばれるものと、機械化時代とを分ける境目」になるものと表現している[12]。シャクルトンはこの航海を「パイオニア」とよび、具体的にはこの遠征に使うつもりで結局は使用しなかった飛行機に触れていた[12]。実際にこれは、冒険を特徴づけた技術的「初物」の1つに過ぎなかった。様々な新しい装置があった。船の見張り台は電気的に暖められた。監視所全体が暖められ、無線電信装置があり、船の航跡を自動的に辿って図面化するオドグラフと呼ばれる装置もあった[12]。写真の映りが良くなり、「大きく高価なカメラの装備、映写機、さらに総合的撮影器具が取得」された[15]。海洋研究器具の中にはルーカス深海探索機があった[16]。
この豊富な資材はローウェットの後援から来ており、元手に過ぎなかった当初の贈与を遠征全体の費用をカバーできるまでに拡大してくれた[17]。ローウェットの寄付の程度は記録されていない。(日付の無い)南方遠征の趣意書で、シャクルトンは全費用を「約10万ポンド」と推算していた[12]。その総額がなんであれ、ローウェットはライオンの分け前(最大の出資)を行い、この時代の南極遠征では異例のことだが、特に目立つ負債もなく帰国したと、後にフランク・ワイルドが記録していた[18][19]。ワイルドに拠れば、ローウェットの行動が無ければ、遠征そのものが不可能だった。「彼の寛大な態度は、財政的な見返りの見込みがないことを知っており、科学研究への興味とシャクルトンとの友情のためにあったということがより注目すべきである」としていた[20]。ローウェットが唯一認めたのは、遠征の名前に自分の名前を入れることだった[17]。ハントフォードに拠れば、ローウェットは「面白味のない、平凡な外貌の」実業家であり[21]、1920年にアバディーンでローウェット研究所(現在はアバディーン大学の一部)という動物栄養学研究施設を共同設立し、その主たる資金提供者になった。またミドルセックス病院では歯科学の研究に資金を提供した[21]。ローウェットはこの遠征が戻ってから長くは生きていなかった。1924年、50歳の手前に、その事業が明確に低迷するようになった後で、自ら命を絶った[22]。
クエスト
1921年3月、シャクルトンは遠征船をクエストと改名した[14]。ハントフォードに拠れば、この船は125トンと小さく、帆と補助機関で8ノットで航行できたが、実際には5.5ノット以上で走ったことは稀だった[23][24]。ハントフォードは、その「船首が真っ直ぐ」であり、扱いにくい横帆艤装で、荒海では横揺れする傾向にあったとしている[14]。フィッシャーは、クエストは1917年に建造され、204トン、大きく広い甲板があると記録している[23][25]。キャビンには電燈があるなど近代的な設備があったが[26]、長い大洋航海には向いていなかった。シャクルトンは最初に出港した日に、「穏やかな嵐でさえも無視できるように作り直すか艤装することはない」と言っていた[27]。リーフ・ミルズはフランク・ワイルドの伝記で、シャクルトンの当初計画通りボーフォート海に行ったとしたら、北極海の叢氷で潰されていたかもしれないと言っている[27]。クエストで南に行ったときも、たびたび損傷を受け、また故障し、訪問する港ごとに修繕を必要とした[14]。
人員
ロンドンの新聞「タイムズ」は、シャクルトンが北極に「主に、それ以前の遠征に同行した者達」12人を連れていくと計画していると報じていた[5]。実際のところ、クエストがロンドンを発ったときは20人が乗り組んでおり、そのうち8人はエンデュアランスの仲間だった。もう一人、ジェイムズ・デルは20年前のディスカバリー遠征のベテランだった[28]。エンデュアランスの仲間の数人は、その遠征で十分に給与を払われていなかったが、個人的な忠誠心からシャクルトンに再度従う用意があった[14][29]。
フランク・ワイルドは、シャクルトンと行く4度目の旅であり、エンデュアランスの時と同様に副隊長になった。エンデュアランスの船長だったフランク・ワースリーが、クエストの船長になった。その他昔からの仲間には、アレクサンダー・マクリンとジェイムズ・マキルロイの2人の船医、気象学者のレナード・ハッシー、機関士のアレクサンダー・カー、水夫のトム・マクロードとコックのチャールズ・グリーンが居た[14]。シャクルトンはトム・クリーンが契約すると見なし、「ボートの担当」を割り振っていたが[30]、クリーンは海軍を退役してアイルランドのケリー県で家庭生活に入り、シャクルトンの招請を辞退した[30]。£×××××××××××××××××××**************************/\××××××××××.%/\£_&""
新参者としては、ニュージーランド生まれのイギリス空軍パイロットのロデリック・カーが、遠征隊の飛行機アブロ・"アンタークティック"・ベイビーを操縦するために雇われた。アブロ・ベイビー機は80馬力のエンジンを付け水上機として改装されたものだった[31][32]。北ロシアでシャクルトンと出逢い、つい近年までリトアニアの空軍で参謀長として仕えていた[33]。実際には、部品が幾らか足りなかったために、この飛行機が遠征中に使われることは無かった。カーは科学的作業を助けた[34]。科学スタッフには、オーストラリアの生物学者で南極の経験があったヒューバート・ウィルキンス、カナダの地質学者で当初はボーフォート海遠征のために契約していたビバート・ダグラスがいた[34]。大衆の注目を集めた応募者は、ボーイスカウトの隊員だったノーマン・ムーニーとジェイムズ・マーの2人だった。新聞「デイリー・メール」が打った広告の結果として、応募してきた1,700人のスカウトの中からこの2人が選出された[35]。ムーニーはオークニー諸島の出身であり、慢性的に船酔いを味わったために、マデイラで船を降りた[36]。マーはアバディーン出身の18歳であり、遠征全体に参加し、シャクルトンとワイルドから応募してきたことを称賛された。船の石炭庫任務に付けられた後、ワイルドに拠れば、マーは「試用の段階をうまくこなし、注目すべき不屈さと忍耐強さを示した」とされていた[36]。
遠征
南行航海
1921年9月17日、クエストは、国王ジョージ5世の検査後にロンドンのセントキャサリンズ・ドックを出港した[37]。大群衆が川岸と橋の上に集まり、この行事を見守った。マーはその日誌に「ロンドン中が共謀して我々に心からの別れを告げようとしている」かのようだったと記していた[23]。
シャクルトンの当初の考えでは、途中南大西洋の島々に寄りながらケープタウンまで南下することにしていた。ケープタウンからは南極のエンダービーランド海岸に向かい、氷に出逢えば、ウェッデル海のコーツランドの方向に海岸線を探検することにしていた。夏の終わりには、サウスジョージアを訪れてからケープタウンに帰り、2年目の作業のために装備と準備を行うことにしていた[23]。しかし、旅の初期段階で船の性能が出ないために、スケジュールが狂ってきた。エンジンに関する重要な問題でリスボンに1週間滞在し、マデイラやカーボベルデ諸島でも停船した[38]。これらの遅れや、船の速度が出ないことで、シャクルトンは南大西洋の諸島を訪問する予定を全て取りやめて、エンジンを分解整備させられるリオデジャネイロに行き先を変えた。クエストは1921年11月22日にリオに到着した[38]。
エンジンの分解整備、および損傷を受けたトップマストの取り換えとで[39]、リオでは4週間滞在することになった。このことはケープタウンに行ってから氷に向かって行っても実際的ではないことを意味していた。シャクルトンは直接サウスジョージアのグリトビケン港に向かうと決断した[40]。ケープタウンに送られていた装置や物資は受け取れないことになったが、シャクルトンは、足りない分をサウスジョージアで賄えると明らかに期待していた[40]。シャクルトンはサウスジョージアに着いたあとの遠征隊の行く先についてははっきり決めていなかった。マクリンはその日誌で「ボスはこの先何をするか分かっていないと全く明け透けに言っている」と記した[41][42]。
シャクルトンの死
クエストがリオを離れる予定日の前日だった12月17日、シャクルトンが病気になった。心臓病を患っていた可能性がある[43]。マクリンが呼ばれたが、シャクルトンは検査されるのを拒み、翌朝には「良くなった」と宣言した[41][44]。その後のサウスジョージアまでの航海では、同船者の証言に拠ると、異常なほど落ち着き、無関心だった。毎朝シャンペンを飲み始め、「痛みを和らげるため」と言っていたが、航海中は酒を認めていなかった通常の規則には反していた[41]。激しい嵐のために計画されていたクリスマスの祝いが中止され、エンジンの蒸気炉の新しい問題で進行が遅れ、シャクルトンにさらにストレスを与えた[45]。1922年1月1日までに天候は落ち着いていた。「嵐の後の休息と静けさ、新年は我々に優しく始まった」とシャクルトンは日記に記していた[46]。1月4日、サウスジョージアが視認され、その朝遅くにクエストはグリトビケン港に停泊した。
シャクルトンは岸にある捕鯨用施設を訪れた後、明らかにリフレッシュした様子で船に戻った。フランク・ワイルドに、翌日に中止されていたクリスマスを祝おうと告げ、日記を書くために船室に入った[44][47]。「死んだ鯨の古い臭いがあらゆる物に染み込んでいる」と記し、「ここは奇妙で興味ある場所である。...素晴らしい夜だ。暗くなっていく薄暮の中で、1つの星が浮かんでいるのを見た。湾の上の宝石のようだった」と書いていた[46]。その後シャクルトンは眠った。船医のマキルロイは交代張り番を終えたときに、いびきを聞いた[47]。1月5日午前2時を回った頃、張り番を終わったマクリンがシャクルトンの船室に呼ばれた。マクリンの日記に拠れば、シャクルトンが背中の痛みと激しい顔面神経痛を訴えており、痛み止め薬を求めた。マクリンは短く相談した間に、日々負担がかかりすぎており、もっと通常の生活を送る必要があると伝えた。マクリンはシャクルトンが「貴方はいつも私に物事を諦めさせたがる。私が今諦めなければならないのは何だろう?」と尋ね、マクリンは「主にアルコールだ、ボス、この点は貴方に良いとは思えない」と答えた会話を記録している。その直後にシャクルトンは「大変激しい発作が起こり、そうしているうちに死んだ」と記録した[48][49]。47歳だった。
マクリンが署名した死亡診断書では、死因を「冠状動脈の粉瘤と心臓まひ」と記されており、現代の言葉では冠状動脈血栓だった[50]。その朝遅く、このとき隊長になっていたワイルドは、乗組員に訃報を伝え、遠征は続行されると告げた[51]。遺体は岸に移され、イングランドに戻すまえに防腐処置を施された。1月19日、レナード・ハッシーが遺体に付き添ってモンテビデオに向かう蒸気船に乗ったが、そこに着いたときにシャクルトン夫人からの伝言が届いており、遺体をサウスジョージアに戻してそこで埋葬するよう求めていた[50]。ハッシーはイギリスの蒸気船に遺体を載せ、グリトビケン港に戻った[50]。3月5日、シャクルトンはノルウェー人の墓地に埋葬された。その間もクエストは航行を続けていたので、シャクルトンの仲間としてハッシーが参列しただけだった[52]。粗い作りの十字架がその墓を示していた。6年後に背の高い花崗岩の柱がそれに代わった[53]。
南極海の氷への航海
ワイルドは指導者になって、遠征にすぐ出発すべきかをまず判断した。カーが炉の問題が何とかなるものであると報告し、サウスジョージアで入手できる物資や装置で補った後、ワイルドがシャクルトンの当初計画に従って全体を進行させると判断した。まず東のブーベ島とその先に向かった後、南に転じてエンダービーランドにできるだけ近く氷の海に入り、そこで海岸線の調査を始めた。この遠征隊は、1842年のジェイムズ・クラーク・ロスが報告していたがそれ以降見つかっていなかったウェッデル海入口の「島の形跡」も探した。しかし最終的に進度は天候と氷の状態および船の性能に依存していた[54]。
クエストはサウスジョージアを1月18日に出発し、南東のサウスサンドイッチ諸島に向かった。大きなうねりがあり、積荷の多かった船はしばしばガンネルまで水に浸かり、中央甲板まで水で満たした[56]。進行していく間にワイルドは、クエストが丸太のように揺れ、水漏れし、常にポンプ作業が必要であり、石炭の消費量が大きく、鈍いと記していた。これらの要素全てにより、1月末には、計画の変更を迫られた。少し南寄りのコースを摂るためにブーベ島が捨てられ、2月4日には叢氷の端に達した[57]。
船が緩い浮氷の海に入ったときに、ワイルドは「今や小さなクエストが実際にその勇気を試すことができる」と記していた[58]。クエストは南極の氷が多い海を通過しようとした船では最小のものであり、他の船の運命も考えたと言っていた。「我々は逃げるべきか、あるいはクエストはデイビー・ジョーンズ・ロッカー(海の底)の船に加わることになるか?」とも言っていた[58][59]。それに続く日々で、気温が下がり、氷が厚くなる中を南に進んだ。2月12日、最も南の緯度となる南緯69度17分に達し、最も東の東経17度9分まで来た。そこはエンダービーランドの直ぐ手前だった。海氷の状態と海が凍り付くことを恐れ、ワイルドは西と北に「急ぎ、エネルギーを使った撤退」を命じた[60]。ワイルドは依然として厚い氷に取り組むことを期待しており、可能ならばその向こうに隠れた陸地を発見したかった。2月18日、船を再度南に向けさせたが、前よりも成功したわけではなかった[61]。2月24日、その後も何度か試みては失敗した後、ワイルドはウェッデル海の入り口を横切って西に向かわせた。船はサウス・シェトランド諸島のエレファント島を訪れた後に、冬の開始と共にサウスジョージアに戻ることとした[62]。
ウェッデル海を横切る行程の大部分は何事もなく進んだ。マクリンに拠れば、ワイルドとワースリーは特に仲良くやるでもなく[63]、乗組員の中に他の不満もあったが、ワイルドの証言では、「最も劇的な扱い」という脅しで扱った[64]。3月12日、南緯64度11分、西経46度4分に達し、そこは1842年にロスが「島影」を記録した所だったが、陸地の兆候は無く、水深が2,300ファソム(13,800 フィート、 4,200 m) 以上あって、近くに陸地がある可能性が無かった[65]。3月15日から21日、クエストは氷に閉じ込められ、石炭が足りなくなったので、大きな問題になった。船が氷を割って自由になると、ワイルドは直接エレファント島に向かうコースを選び、そこにいるゾウアザラシの脂肪から石炭に代わる代替物を得られると期待していた[66]。3月25日、エレファント島が視認された。ワイルドは可能ならば、昔エンデュアランス遠征のキャンプ地となったケープ・ワイルドを再訪したいと考えたが、天候のために妨げられた。乗組員はそこを双眼鏡で眺め昔の目印を見つけた後に、西側の海岸に上陸してゾウアザラシを捕まえた[67]。石炭に混ぜるに十分な脂肪を得られたので、風を受けて、4月6日にはサウスジョージアに着くことができた[67]。
帰還
クエストはサウスジョージアに1か月滞在し、その間にシャクルトンの昔の仲間が、グリトビケン港入り口を見下ろす岬の上に、もとの指導者のために記念のケアンを建てた[68]。クエストは最終的に5月8日に南アフリカに向かった。しかし、最初の訪問港は、ケープタウンの西と南にある有人の遠隔の島トリスタンダクーニャだった。ここで、チーフ・スカウトの命令で、マーが地元スカウトに旗を進呈することになった[69][70]。吠える40度の海域を通過した後、クエストは5月20日にトリスタンダクーニャに到着した[71]。
トリスタンダクーニャに滞在した5日間の間に、島人の助けもあり、遠征隊はトリスタンの南西20マイル (32 km) にある小島のイナクセシブル島に短時間上陸した。さらに小さなナイチンゲール島にも上陸し、標本を採集した[72]。ワイルドのトリスタンに滞在した印象はすべて良好なものではなかった。ぞっとするようなみすぼらしさや貧困について言及し、人々について「彼らは無知であり、外界から全く遮断されている。見解が酷く限られている」と語っていた[73]。このような言及があったが、スカウトのパレードと旗の贈呈が行われ、その後でクエストは200マイル (320 km) 東のゴフ島に行った[70]。そこでは遠征隊員が地質学と植物学のサンプリングを行った[71]。ケープタウンには6月18日に到着し、熱狂的な観衆に迎えられた。南アフリカの首相ヤン・スマッツが公式レセプションを行い、地元の組織にはディナーやランチに招待された[71]。
隊員はローウェットの代理人と会い、イングランドに戻れという伝言を受け取った[74]。ワイルドは「私はエンダービー四半分でもう1年やりたいと思った。...ケープタウンを出発点にし、シーズンの早くに出発することで、多くのことが達成できると思った」と記していた[75]。しかし、7月19日にケープタウンを発って北に向かった。最後段の訪問地はセントヘレナ、アセンション島、サン・ヴィセンテ島だった。9月16日、出発からほぼ1年後にプリマス港に戻って来た[76]。
遠征の後
評価
ワイルドに拠れば、この遠征は「静かに」終わったが、その伝記作者リーフ・ミルズはプリマスサウンドにおける熱狂的な観衆について記している[77][78]。ワイルドはその証言の最後に、彼らが持って帰った情報が「我々を依然として取り巻いている大きな自然の問題を解決する役にたつ価値がある」という期待を表明した[77]。これらの結果は、ワイルドの著作の5冊の付録に要約された[79]。その要約は、科学スタッフが訪問港で集めたデータや標本を反映しており[80]、南極に行く前にカートやダグラスがサウスジョージアで実行した地質学調査にも基づいている[81]。最終的にこれら資料から幾つかの科学的論文や記事が作成されたが、リーフ・ミルズの言葉では「1年間の仕事を示すには十分でない」ということになった[80]。
元々明確に定義された目的が無かったこともあり[82][83]、南に向かう途中でケープタウンに寄れなかったために、重要な装置を積み込めなかったので、その欠陥にさらに追い打ちを掛けられた。サウスジョージアでは、ワイルドがこの欠陥を埋め合わせることをほとんど見出せなかった。島には犬が居らず、橇の旅を実行できなくなった。そのためにワイルドが望んだ南極半島のグレアムランド探検という、遠征目的の変更もできなくなった[84]。重大な作業を始める前にシャクルトンが死んだことは大きな打撃となり、ワイルドがその代役を務めることの適切性に関する疑問が挙がった。幾つかの記録ではワイルドが深酒をしていたことについて報告しており、シャクルトンの伝記作者ロランド・ハントフォードに拠れば「実質的にアルコール中毒」だったとされている[85][86]。しかしミルは、シャクルトンがこの遠征全体で生きていたとしても、その置かれた状況下で、ワイルドの指揮下に成し遂げた以上のことができたかと言えば疑問であると示唆している[83]。南に向かう航海で、隊員はシャクルトンの倦怠感、大人しさ、および気分の変わりやすさという変化に気付いていた[87]。
技術的な革新について、飛行機を飛ばせなかったことはもう1つの落胆原因だった。シャクルトンは南極海における輸送で飛行機を使うパイオニアになるという期待が高かった。この件についてはイギリスの航空省と議論してもいた[88]。フィッシャーの証言によると、飛行機の重要部品がケープタウンに送られていたが、それを積むことができなかった[89]。長距離の220ボルト無線通信装置も適切に動かず、初期段階で諦められた。すこし小さな110ボルトの装置は250マイル (400 km) の範囲でのみ作動した[20]。トリスタンを訪れたときに、ワイルドは地元代理人の支援で新しい無線通信機を設置しようとしたが、うまく行かなかった[90]。
英雄時代の終焉
クエストが帰還した後に南極には空白期間が訪れ、7年間この地域には重要な遠征が行われなかった[91]。その次の遠征はそれまでの者とは異なる性格のものであり、「機械化時代」に属するものだった[92]。
ワイルドはクエスト遠征に関する報告の最後で、「私の南極での仕事は終わっている」と記し、その後南極に戻ることはなく、シャクルトン同様、英雄時代を画する経歴を閉じている[76][93]。エンデュアランスの隊員達も南極に戻っていないが、ワースリーのみが1925年に1度北極に行った[94]。クエストの乗組員やスタッフの中では、オーストラリアの博物学者ヒューバート・ウィルキンスが北極と南極双方で飛行機のパイオニアとなり、1928年にはアラスカのポイント・バローからスピッツベルゲン島まで飛行した。1930年代にもアメリカの冒険家リンカーン・エルズワースと協力して南極点まで飛ぼうと何度か試みたが失敗した[94]。ボースカウトだったジェイムズ・マーは海洋生物学者として身を立ててから南極の常連となり、1920年代後半から1930年代にオーストラリアの遠征に何度か参加した[95]。パイロットのロデリック・カーはイギリス空軍の少将となった[96]。
脚注
- ^ Huntford, p. 649
- ^ Fisher, p. 435
- ^ Fisher, p. 437
- ^ a b Fisher, p. 441
- ^ a b c d e f Fisher, pp. 442–45
- ^ Wild, p. 2
- ^ “Measuring Worth”. Institute for the Measurement of Worth. 21 November 2008閲覧。
- ^ Huntford, pp. 680–82
- ^ Mills, p. 287
- ^ Harrington, p. 1
- ^ “Shackleton, Antarctic Explorer, is Dead”. The (Spokane) Spokesman-Review. 2012年3月17日閲覧。
- ^ a b c d e f Fisher, pp. 446–49
- ^ “Shackleton to Sail to Antarctic Again”. New York Times: p. 13. (June 29, 1921)
- ^ a b c d e f Huntford, pp. 684–85
- ^ Frank Wild, quoted in Leif Mills, p. 289
- ^ Wild, p. 13
- ^ a b Mills, pp. 287–88
- ^ Wild (Preface)
- ^ Huntford (p. 693) records that Rowett estimated that the expedition had cost him £70,000
- ^ a b “The Voyage of the "Quest"”. The Geographical Journal 61: 74. (February 1923). doi:10.2307/1781104.
- ^ a b Huntford, p. 682
- ^ “The Agricultural Association, the Development Fund, and the Origins of the Rowett Research Institute” (PDF). British Agricultural History Society. 5 November 2008閲覧。 Footnote, p. 60
- ^ a b c d Fisher, pp. 459–61
- ^ Eight knots = 9.2 miles per hour, 14.8 km/h. 5½ knots = 6.3 mph, 10.2 mph
- ^ The difference in the figures provided by Huntford and Fisher may represent the distinction between tonnage, a measure of volume, and displacement, a measure of weight.
- ^ Huntford (The Shackleton Voyages), p. 259
- ^ a b Mills, pp. 287–90
- ^ Fisher, p. 464
- ^ Another Shackleton loyalist, Ernest Joyce, had fallen out with Shackleton over the money he claimed was owed to him, and was not invited to join the expedition. Tyler-Lewis, pp. 256–57
- ^ a b Smith, p. 308
- ^ Riffenburgh, p. 892
- ^ Verdon-Roe, p. 258
- ^ Carr subsequently had a distinguished Royal Air Force career, rising to the rank of Air Marshal and becoming Deputy Chief of Staff (Air) to SHAEF in 1945. Fisher, p. 489
- ^ a b Fisher, pp. 451–53
- ^ Fisher, p. 454
- ^ a b Wild, p. 32
- ^ Huntford, p. 683
- ^ a b Mills, pp. 292–93
- ^ Wild, p. 44
- ^ a b Fisher, pp. 466–67
- ^ a b c Fisher, pp. 471–73
- ^ Huntford, p. 688
- ^ Huntford, p. 687
- ^ a b Mills, p. 294
- ^ Fisher, pp. 473–76
- ^ a b Shackleton, Ernest. “Diary of the Quest Expedition 1921–22”. Cambridge: Scott Polar Research Institute. 3 December 2008閲覧。
- ^ a b Fisher, pp. 476–77
- ^ Macklin diary, quoted by Fisher, p. 477
- ^ Huntford, p. 690
- ^ a b c Fisher, pp. 478–81
- ^ Wild, p. 66
- ^ Wild, p. 69
- ^ See Fisher, illustrations pp. 480–81
- ^ Wild, pp. 73–75 and 78–79
- ^ Based on Wild, pp. 98–137
- ^ Wild, pp. 82–87
- ^ Wild, pp. 88–91 and p. 98
- ^ a b Wild, pp. 98–99
- ^ Davy Jones's Locker is the traditional seaman's euphemism for the bottom of the sea.
- ^ Wild, pp. 115–21
- ^ Wild, p. 132
- ^ Wild, p. 136
- ^ Mills, p. 303
- ^ Wild, pp. 137–39
- ^ Wild, p. 144
- ^ Mills, p. 304
- ^ a b Mills, p. 305
- ^ Fisher, pp. 482–83
- ^ “Shackleton-Rowett Expedition 50th anniversary, Tristan da Cunha”. Scouts on Stamps Society International. 28 November 2008閲覧。
- ^ a b Wild, p. 232
- ^ a b c Mills, pp. 306–08
- ^ Wild, pp. 206–14
- ^ Wild, p. 207
- ^ Fisher, p. 483
- ^ Wild, p. 287
- ^ a b Wild, p. 313
- ^ a b Wild, pp. 312–13
- ^ Mills, p. 308
- ^ Wild, pp. 321–49
- ^ a b Mills, p. 307
- ^ Wild, p. 80
- ^ Huntford, p. 464
- ^ a b Mills, p. 330
- ^ Wild, pp. 74–75
- ^ Huntford, p. 693
- ^ Mills, p. 297
- ^ Huntford, pp. 687–88
- ^ Fisher, pp. 447–48
- ^ Fisher, p. 452
- ^ Wild, p. 214
- ^ “An Antarctic Time Line 1519–1959”. www.southpole.com. 30 November 2008閲覧。
- ^ Fisher, p. 449
- ^ ワイルドはディスカバリー遠征(1901年–1904年)、ニムロド遠征(1907年–1909年)、オーストラリア南極遠征(1911年–1913年)、帝国南極横断探検隊(1914年–1917年)、およびこのシャクルトン=ローウェット遠征に参加した
- ^ a b Fisher, p. 494
- ^ Fisher, p. 492
- ^ Fisher, p. 489
参考文献
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