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'''アイリッシュ・ナショナルスタッド'''({{lang-en-short|The Irish National Stud}})は、[[アイルランド]]・[[キルデア県]]{{仮リンク|キルデア (アイルランド)|en|Kildare|label=キルデア}}近郊のタリー(Tully)にある[[競走馬]]([[サラブレッド]])の生産牧場。 |
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20世紀初頭に個人経営の牧場として発足し、1916年から1943年までは英国の[[ナショナルスタッド]]であった。現在牧場を経営するアイリッシュ・ナショナルスタッド株式会社({{lang-ga|Colucht Groighe Naisiunta na hÉireann Teo}}、{{lang-en-short|The Irish National Stud Co. Ltd}})はアイルランド政府所有の企業である。また、この牧場は20世紀初頭につくられた日本庭園でも知られている。 |
2020年8月30日 (日) 21:58時点における版
アイリッシュ・ナショナルスタッド(英: The Irish National Stud)は、アイルランド・キルデア県キルデア近郊のタリー(Tully)にある競走馬(サラブレッド)の生産牧場。
20世紀初頭に個人経営の牧場として発足し、1916年から1943年までは英国のナショナルスタッドであった。現在牧場を経営するアイリッシュ・ナショナルスタッド株式会社(アイルランド語: Colucht Groighe Naisiunta na hÉireann Teo、英: The Irish National Stud Co. Ltd)はアイルランド政府所有の企業である。また、この牧場は20世紀初頭につくられた日本庭園でも知られている。
沿革
富裕な醸造家に生まれたウィリアム・ホール・ウォーカー(のちにウェーバーツリー卿) (William Walker, 1st Baron Wavertree) は、1900年にこの地を購入し、スタッドファーム(種馬飼育場)「タリー牧場」を建設した。1906年から1910年にかけて、ウォーカーと日本人庭師タッサ・イイダ(Tassa Eida)、タッサの息子のミノル(Minoru)によって、日本庭園が設計された。このタッサ・イイダとは、それまで骨董商としてロンドンに居住していた飯田三郎で[1]、ミノルとはその息子の飯田実のことである[2][3]。
1906年にこの牧場で生まれた「ミノル」の名は、庭師のイイダ・ミノルにちなむものであると、スタッドの公式サイトでは記していた(現在はリンク切れ)[4][5]。競走馬のミノルは国王エドワード7世に貸し出され、1909年にダービーステークスを制するなどの活躍を見せた。
1915年、ウィリアム・ホール・ウォーカーはこの地を離れることとなり、タリーにある牧場とサラブレッドを英国政府に寄贈し、1916年にナショナルスタッドとなった。
1943年、タリーの牧場の資産はアイルランド政府の所有となった。1945年に制定されたアイルランドのナショナルスタッド法によって、1946年4月11日に公式にアイリッシュ・ナショナルスタッド会社が発足した。
運営
アイリッシュ・ナショナルスタッド株式会社の株は、理事に提供される名目的な株を除いて、すべてアイルランド財務省が所有している。理事長も含め理事会メンバーは、農業大臣によって指名される。
著名な競走馬のブリーダーであるChryss Goulandrisも、1998年から理事を務めている。
主な生産馬・繋養馬
種牡馬
- Free Eagle
- Invincible Spirit(2003年~)
- Dragon Pulse
- Famous Name
- Elusive Pimpernel
- Worthadd
- Gale Force Ten
- Palavicini
- デコレーテッドナイト
過去の繋養馬
- Royal Charger(死亡)
- アラムシャー(2006年~2007年、JBBAへ)
- Celtic Swing
- Desert Prince(1999年~)
- ピルサドスキー(2003年~)
- Indian Haven(2009年~)
- Amadeus Wolf(2008年~)
- Jeremy(2009年~)
- Verglas(2009年~)
- Art Connoisseur(2010年~)
- Lord Shanakill(2011年~)
- Big Bad Bob
付属施設
日本庭園
日本庭園は1906年から1910年にかけて造営された。「人の一生」をテーマにしたものとなっている。飯田三郎と妻、2人の息子である実とカイジ(Kaiji)は、敷地内のCurragh House(現在は見習い騎手の教育センター)に暮らしていた。1911年、飯田三郎とその家族はウォーカーのもとで別の庭園を造るためにロンドンに引っ越したが、三郎はその年に亡くなり、息子のミノルこと飯田実は、英国人と結婚してロンドンで技術者として暮らしたという[2][3][6]。
日本庭園は、ウィリアム・ウォーカーの手を離れて英国のナショナルスタッドになって以降、忘れられた存在となった。再び庭園監督が付くようになったのは、1946年にアイリッシュ・ナショナルスタッド会社が設立してからである。
1980年代、飯田実の子のブライアン(Brian)は旅行者としてこの庭園を訪れ[6][7][8]、これを契機として祖父の仕事を継ぐこととなった。
聖フィアクル庭園
聖フィアクル庭園(St Fiachra's Garden)は、1999年に牧場の100周年を記念して制作された。庭師の守護聖人である聖フィアクル(7世紀、アイルランド出身の人物)を記念したものである。
馬事博物館
馬事博物館(The Horse Museum)が併設されている。ここでは、1960年代に障害競走で活躍したアークル(1957年 - 1970年)の骨格標本が展示されている。
ギャラリー
-
茶室
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日本庭園の飛び石(Stepping stones)
-
日本庭園の滝
脚注
- ^ 佐藤昌, 「外国における日本庭園 : 初期の造園」『造園雑誌』 49巻 3号、日本造園学会、1986年、p.167-188, doi:10.5632/jila1934.49.167
- ^ a b Stan Fukawa"The name of the Father of the Boy Minoru"[リンク切れ]「Nikkei Images」Vol.15 No.2、p.6-7(2010年、英語、PDF文書)
- ^ a b 受け継がれた名前/ミノル譚(完) - まったり血統派の茶飲み話
- ^ Japanese Gardens - Tourism - Irish National Stud Archived 2011年7月7日, at the Wayback Machine.
- ^ 東京帝国大学の学生で、1902年に100m競走に10秒24という記録を出したとされる藤井實にちなむという説を記している書籍もある(保阪正康『100メートルに命を賭けた男たち』朝日新聞社、1984年、pp.136 - 137)。
- ^ a b アイルランドの日本庭園を巡る長い物語 - 翡翠輝子の招福日記
- ^ 受け継がれた名前/ミノル譚(9)
- ^ The Naming of Minoru Park in Richmond, B.C. - Nikkei Images、p.17(2006年、英語、PDF文書)
関連項目
外部リンク
座標: 北緯53度9分12.65秒 西経6度54分36.36秒 / 北緯53.1535139度 西経6.9101000度