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「法蔵 (百済)」の版間の差分

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時期からして[[白村江の戦い]]で[[倭国]]に亡命した[[渡来人]]の一人だと思われる。
時期からして[[白村江の戦い]]で[[倭国]]に亡命した[[渡来人]]の一人だと思われる。


『[[日本書紀]]』巻第二十九によると、[[天武天皇]]14年([[685年]])、仏教の[[在家]]信者(優婆塞)の[[益田金鐘]]とともに[[美濃国|美濃]]([[岐阜県]]南部)に派遣され、天皇の病を治療するために[[オケラ (植物)|白朮]](オケラ)を煎じた。これによって[[あしぎぬ|絁]]・[[木綿|綿]]・[[布]]をあたえられた<ref>『日本書紀』天武天皇下 14年10月8日条</ref>。同年11月、金鐘とともに10月に煎じた白朮の薬を献上している<ref>『日本書紀』天武天皇下 14年11月24日条</ref>。
『[[日本書紀]]』巻第二十九によると、[[天武天皇]]14年([[685年]])、仏教の[[在家]]信者(優婆塞)の[[益田金鐘]]とともに[[美濃国|美濃]]([[岐阜県]]南部)に派遣され、天皇の病を治療するために[[オケラ (植物)|白朮]](オケラ)を煎じた。これによって[[絁]]・[[木綿|綿]]・[[布]]をあたえられた<ref>『日本書紀』天武天皇下 14年10月8日条</ref>。同年11月、金鐘とともに10月に煎じた白朮の薬を献上している<ref>『日本書紀』天武天皇下 14年11月24日条</ref>。


その後、[[陰陽博士]]になり、持統天皇6年([[692年]])、天皇の伊勢行幸に関与して、[[銀]]二十両を賜与されている<ref>『日本書紀』持統天皇6年2月11日条</ref>。
その後、[[陰陽博士]]になり、持統天皇6年([[692年]])、天皇の伊勢行幸に関与して、[[銀]]二十両を賜与されている<ref>『日本書紀』持統天皇6年2月11日条</ref>。

2020年8月27日 (木) 23:14時点における版

法蔵(ほうぞう、生没年不詳)は、飛鳥時代僧侶百済からの渡来人

経歴

時期からして白村江の戦い倭国に亡命した渡来人の一人だと思われる。

日本書紀』巻第二十九によると、天武天皇14年(685年)、仏教の在家信者(優婆塞)の益田金鐘とともに美濃岐阜県南部)に派遣され、天皇の病を治療するために白朮(オケラ)を煎じた。これによって綿をあたえられた[1]。同年11月、金鐘とともに10月に煎じた白朮の薬を献上している[2]

その後、陰陽博士になり、持統天皇6年(692年)、天皇の伊勢行幸に関与して、二十両を賜与されている[3]

脚注

  1. ^ 『日本書紀』天武天皇下 14年10月8日条
  2. ^ 『日本書紀』天武天皇下 14年11月24日条
  3. ^ 『日本書紀』持統天皇6年2月11日条

参考文献

関連項目