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「志我閉阿弥陀」の版間の差分

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『[[続日本紀]]』による。
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*時期不詳:[[正六位|正六位上]]
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*[[養老]]5年([[721年]]) 正月27日:賜[[あしぎぬ|絁]]10疋・[[絹|絹糸]]10絇・[[麻織物|麻布]]20端・鍬20口
*[[養老]]5年([[721年]]) 正月27日:賜[[絁]]10疋・[[絹|絹糸]]10絇・[[麻織物|麻布]]20端・鍬20口
*養老7年([[723年]]) 正月10日:[[従五位|従五位下]]
*養老7年([[723年]]) 正月10日:[[従五位|従五位下]]



2020年8月27日 (木) 23:13時点における版

志我閉 阿弥陀(しがへ/しがべ の あみだ、生没年不詳)は、奈良時代貴族陰陽家。氏は志我閇志我部、名は阿弥陁阿弥太とも記される。位階従五位下

出自

志我閉氏(志我閉連)は、霊王太子晋の後裔で、山田氏(山田宿禰)と同祖とする周系渡来氏族[1]

経歴

養老5年(721年元正天皇が諸官人の中から学業に優れ人々の模範とするに堪える者を選んで褒賞を与えた際、陰陽に優れる者として、大津首津守通王仲文角兄麻呂らとともに、10疋・絹糸10絇・麻布20端・鍬20口を与えられている。この時に選ばれた人物は、『藤氏家伝』下に神亀年間(724年 - 729年)の学芸の士として列挙されたものが多く、皇太子首皇子(のちの聖武天皇)の教育に資するため、文芸学術に優れたものを選出したものと見られる[2]

養老7年(723年越智広江高金蔵らとともに従五位下叙爵した。

官歴

続日本紀』による。

脚注

  1. ^ 「志我閉連。王安高之後也」(『新撰姓氏録』右京諸蕃)
  2. ^ 『続日本紀 2 新日本古典文学大系13』84頁

参考文献