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初め出家して'''義法'''と名乗って学問僧として[[新羅]]に留学し、[[文武天皇|文武朝]]末の[[慶雲]]4年([[707年]])[[遣新羅使|遣新羅大使]]・[[美努浄麻呂]]に率いられて義基・惣集・慈定・浄達らと共に帰国する<ref>『続日本紀』慶雲4年5月28日条</ref>。[[和銅]]7年([[714年]])[[占術]]に優れたことから、還俗して大津連の[[カバネ|姓]]と意毘登の名を与えられ、[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]した。
初め出家して'''義法'''と名乗って学問僧として[[新羅]]に留学し、[[文武天皇|文武朝]]末の[[慶雲]]4年([[707年]])[[遣新羅使|遣新羅大使]]・[[美努浄麻呂]]に率いられて義基・惣集・慈定・浄達らと共に帰国する<ref>『続日本紀』慶雲4年5月28日条</ref>。[[和銅]]7年([[714年]])[[占術]]に優れたことから、還俗して大津連の[[カバネ|姓]]と意毘登の名を与えられ、[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]した。


[[養老]]5年([[721年]])百官のうちで学業に優れて模範となるべき者に対して後進の励みとするために、[[元正天皇]]から特別に褒賞を与えることになったが、首は[[津守通]]らと共に[[陰陽道|陰陽]]に優れていることを賞され、[[あしぎぬ|絁]]10疋・[[絹|絹糸]]10絇・[[麻織物|麻布]]20端・[[鍬]]20口を与えられている(この時の[[位階]]は従五位上)。[[天平]]2年([[730年]])諸博士が老いてきたことから学業を後進に教授することになった際、首は3人の弟子を取って陰陽を学ばせるように命ぜられた<ref>『続日本紀』天平2年3月27日条</ref>。
[[養老]]5年([[721年]])百官のうちで学業に優れて模範となるべき者に対して後進の励みとするために、[[元正天皇]]から特別に褒賞を与えることになったが、首は[[津守通]]らと共に[[陰陽道|陰陽]]に優れていることを賞され、[[絁]]10疋・[[絹|絹糸]]10絇・[[麻織物|麻布]]20端・[[鍬]]20口を与えられている(この時の[[位階]]は従五位上)。[[天平]]2年([[730年]])諸博士が老いてきたことから学業を後進に教授することになった際、首は3人の弟子を取って陰陽を学ばせるように命ぜられた<ref>『続日本紀』天平2年3月27日条</ref>。


『[[懐風藻]]』に[[漢詩]]作品2首が採録されている。
『[[懐風藻]]』に[[漢詩]]作品2首が採録されている。
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*[[和銅]]7年([[714年]]) 3月10日:[[還俗]](大津連意毘登)、[[従五位|従五位下]]
*[[和銅]]7年([[714年]]) 3月10日:[[還俗]](大津連意毘登)、[[従五位|従五位下]]
*時期不詳:従五位上
*時期不詳:従五位上
*[[養老]]5年([[721年]]) 正月27日:賜[[あしぎぬ|絁]]10疋・[[絹|絹糸]]10絇・[[麻織物|麻布]]20端・[[鍬]]20口
*[[養老]]5年([[721年]]) 正月27日:賜[[絁]]10疋・[[絹|絹糸]]10絇・[[麻織物|麻布]]20端・[[鍬]]20口


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年8月27日 (木) 23:12時点における版

 
大津首
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 不明
改名 義法→大津首
別名 意毘登
官位 従五位上
主君 文武天皇元明天皇元正天皇聖武天皇
氏族 大津
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大津 首(おおつ の おびと)は、奈良時代貴族陰陽師漢詩人。名は意毘登とも記される。僧名は義法位階従五位上

経歴

初め出家して義法と名乗って学問僧として新羅に留学し、文武朝末の慶雲4年(707年遣新羅大使美努浄麻呂に率いられて義基・惣集・慈定・浄達らと共に帰国する[1]和銅7年(714年占術に優れたことから、還俗して大津連のと意毘登の名を与えられ、従五位下叙爵した。

養老5年(721年)百官のうちで学業に優れて模範となるべき者に対して後進の励みとするために、元正天皇から特別に褒賞を与えることになったが、首は津守通らと共に陰陽に優れていることを賞され、10疋・絹糸10絇・麻布20端・20口を与えられている(この時の位階は従五位上)。天平2年(730年)諸博士が老いてきたことから学業を後進に教授することになった際、首は3人の弟子を取って陰陽を学ばせるように命ぜられた[2]

懐風藻』に漢詩作品2首が採録されている。

官歴

続日本紀』による。

脚注

  1. ^ 『続日本紀』慶雲4年5月28日条
  2. ^ 『続日本紀』天平2年3月27日条

参考文献