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神護景雲4年([[770年]])称徳天皇が[[崩御]]してまもなく[[図書寮|図書頭]]に遷ると、[[宝亀]]5年([[774年]])[[大学寮|大学頭]]と[[光仁天皇|光仁朝]]では京官を務めた。また、宝亀8年([[777年]])には[[日置道形|道形]]ら一族と共に日置造から栄井宿禰に[[改姓]]している。 |
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[[天応 (日本)|天応]]元年([[781年]])[[桓武天皇]]の即位に伴って正五位下に叙せられ、翌天応2年([[782年]])陰陽頭に任ぜられている。また延暦2年([[783年]])[[四書五経]]に明るく行いに励み、若い頃より清廉で慎み深いことで知られており、後進の[[官人]]にも尊ばれ推されていることから、80歳になったことを祝して桓武天皇から[[絁|あしぎぬ]]・[[麻布]]・米・塩を与えられている<ref>『続日本紀』延暦2年正月4日条</ref>。 |
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== 官歴 == |
== 官歴 == |
2020年8月27日 (木) 23:11時点における版
時代 | 奈良時代 |
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生誕 | 大宝4年(704年) |
死没 | 不明 |
官位 | 正五位下・陰陽頭 |
主君 | 淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇 |
氏族 | 日置造→栄井宿禰 |
父母 | 父:日置真卯 |
兄弟 |
蓑麻呂、笠麻呂、稲足、小島女、 辛波知女 |
日置 蓑麻呂(へき の みのまろ)は、奈良時代の貴族。氏姓は日置造のち栄井宿禰。大和介・日置真卯の子[1]。官位は正五位下・陰陽頭。
出自
日置氏(日置造)は高句麗人である伊利須使主の子孫とされる渡来系氏族[2]。
経歴
左京三条三坊戸主の日置男成の戸口[3]。天平年間に東大寺写経書に勤務し、『正倉院文書』にその名が現れる。淳仁朝にて大内記を務めたのち、外従五位下に叙せられ、天平宝字6年(762年)丹波介に任ぜられる。
天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側に付いたと見られ、乱後の10月に外正五位下に、翌天平神護元年(765年)正月には内位の従五位下に叙せられている。神護景雲元年(767年)従五位上に昇叙され、翌神護景雲2年(768年)には丹波介から丹波守に昇格した。
神護景雲4年(770年)称徳天皇が崩御してまもなく図書頭に遷ると、宝亀5年(774年)大学頭と光仁朝では京官を務めた。また、宝亀8年(777年)には道形ら一族と共に日置造から栄井宿禰に改姓している。
天応元年(781年)桓武天皇の即位に伴って正五位下に叙せられ、翌天応2年(782年)陰陽頭に任ぜられている。また延暦2年(783年)四書五経に明るく行いに励み、若い頃より清廉で慎み深いことで知られており、後進の官人にも尊ばれ推されていることから、80歳になったことを祝して桓武天皇からあしぎぬ・麻布・米・塩を与えられている[4]。
官歴
注記のないものは『続日本紀』による。
- 天平宝字3年(759年) 3月25日:見大内記[5]
- 時期不詳:外従五位下
- 天平宝字6年(762年) 正月9日:丹波介
- 天平宝字8年(764年) 10月8日:外正五位下
- 天平神護元年(765年) 正月7日:従五位下(内位)
- 神護景雲元年(767年) 9月2日:従五位上
- 神護景雲2年(768年) 11月18日:丹波守
- 神護景雲4年(770年) 8月22日:図書頭
- 宝亀5年(774年) 3月5日:大学頭
- 宝亀8年(777年) 4月3日:日置造から栄井宿禰に改姓
- 天応元年(781年) 4月15日:正五位下
- 天応2年(782年) 2月7日:造法華寺長官。9月9日:陰陽頭