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[[1915年]]([[中華民国暦|民国]]4年)、中華民国大総統の[[袁世凱]]は、自己の権力を拡大するために、皇帝即位を目論むようになる。袁の肝煎りにより、当時の知識人の1人である[[楊度]]が、共和国体([[共和制]])は、中国の国情に合わないため、帝制([[君主制]])を導入すべき、との主張を展開し始めた。楊度は、[[孫毓筠]]・[[厳復]]・[[胡瑛 (湖南)|胡瑛]]・[[劉師培]]・[[李燮和]]の5人と共に、籌安会を結成し、この6人は「六君子」と呼ばれた。なお、楊度と厳復以外の4人は、いずれも過去に[[中国同盟会]]に所属していた元・革命派の人物である<ref>ただし李燮和については、その籌安会加入の真意について定かではない部分が多い。たとえば、袁世凱皇帝即位前後において、これに反対していた[[蔡鍔]]の北京脱出を支援するなどの動きも見せている。蕭棟梁「李燮和」 『民国人物伝 第12巻』 [[中国社会科学院]]近代史研究所、[[中華書局]]、2005年、112頁。</ref>。 |
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しかし、中国国内での帝制への反応は、拒否的なものがほとんどであった。同年12月、袁世凱は正式に[[中華帝国]]皇帝に即位したが、[[雲南省]]に結集した[[蔡鍔]]・[[梁啓超]]・[[唐継尭]]ら反袁勢力が蜂起し([[護国戦争]])、さらに袁の腹心である[[段祺瑞]]・[[馮国璋]]からも帝制への支持を得ることができなかった。翌年3月、袁は皇帝即位を取り消し、6月、失意のうちに死去した。籌安会の構成員も政界から失脚し、中でも楊度・孫毓筠・劉師培は、指名手配を受けている。 |
しかし、中国国内での帝制への反応は、拒否的なものがほとんどであった。同年12月、袁世凱は正式に[[中華帝国]]皇帝に即位したが、[[雲南省]]に結集した[[蔡鍔]]・[[梁啓超]]・[[唐継尭]]ら反袁勢力が蜂起し([[護国戦争]])、さらに袁の腹心である[[段祺瑞]]・[[馮国璋]]からも帝制への支持を得ることができなかった。翌年3月、袁は皇帝即位を取り消し、6月、失意のうちに死去した。籌安会の構成員も政界から失脚し、中でも楊度・孫毓筠・劉師培は、指名手配を受けている。 |
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2020年8月27日 (木) 22:33時点における最新版
籌安会(ちゅうあんかい)は、中華民国初期に存在した社会団体。
1915年(民国4年)、中華民国大総統の袁世凱は、自己の権力を拡大するために、皇帝即位を目論むようになる。袁の肝煎りにより、当時の知識人の1人である楊度が、共和国体(共和制)は、中国の国情に合わないため、帝制(君主制)を導入すべき、との主張を展開し始めた。楊度は、孫毓筠・厳復・胡瑛・劉師培・李燮和の5人と共に、籌安会を結成し、この6人は「六君子」と呼ばれた。なお、楊度と厳復以外の4人は、いずれも過去に中国同盟会に所属していた元・革命派の人物である[1]。
しかし、中国国内での帝制への反応は、拒否的なものがほとんどであった。同年12月、袁世凱は正式に中華帝国皇帝に即位したが、雲南省に結集した蔡鍔・梁啓超・唐継尭ら反袁勢力が蜂起し(護国戦争)、さらに袁の腹心である段祺瑞・馮国璋からも帝制への支持を得ることができなかった。翌年3月、袁は皇帝即位を取り消し、6月、失意のうちに死去した。籌安会の構成員も政界から失脚し、中でも楊度・孫毓筠・劉師培は、指名手配を受けている。