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[[梁 (南朝)|梁]]の寧遠岳陽王府記室参軍の阮問道の子として生まれた。幼くして聡明で、[[経書]]を精読し、談論にたくみで、五言詩を最も得意とした。父の問道は岳陽王[[蕭詧]]の下で[[江州]]に赴任し、阮卓が15歳のときに死去した。阮卓は[[建康 (都城)|建康]]から駆けつけ、水や飲み物すら何日も口に入れなかった。[[侯景の乱]]が起こり、交通が遮断されていたが、阮卓は危険をかえりみず、父の柩を連れて建康に帰った。
[[梁 (南朝)|梁]]の寧遠岳陽王府記室参軍の阮問道の子として生まれた。幼くして聡明で、[[経書]]を精読し、談論にたくみで、五言詩を最も得意とした。父の問道は岳陽王[[蕭詧]]の下で[[江州]]に赴任し、阮卓が15歳のときに死去した。阮卓は[[建康 (都城)|建康]]から駆けつけ、水や飲み物すら何日も口に入れなかった。[[侯景の乱]]が起こり、交通が遮断されていたが、阮卓は危険をかえりみず、父の柩を連れて建康に帰った。


[[559年]]([[永定 (陳)|永定]]3年)、陳の[[文帝 (陳)|文帝]]が即位すると、阮卓は軽車鄱陽王府外兵参軍に任じられた。[[566年]]([[天康 (陳)|天康]]元年)、雲麾新安王府記室参軍に転じた。新安王陳伯固の転府に従い、翊右記室となり、撰史著士を兼ねた。後に鄱陽王中衛府録事に転じ、さらに晋安王府記室をつとめた。[[570年]]([[太建]]2年)に[[欧陽コツ|欧陽紇]]の乱が鎮圧されて以降、[[交阯]]の諸民族がたびたび反抗したため、阮卓は[[宣帝 (陳)|宣帝]]の命を受けてかれらの招慰にあたった。交阯は南方の[[日南郡]]や[[象郡]]に道が通じていて、金翠珠貝の珍しい物産が多く、前後の使者たちはそれらの財宝を持ち帰っていたが、ひとり阮卓は何も持たずに帰ってきたため、当時の人々はその清廉ぶりに感心した。衡陽王府中録事参軍に転じた。入朝して尚書祠部郎となった。[[577年]](太建9年)、始興王[[陳叔陵]]が[[揚州 (古代)|揚州]][[刺史]]となると、阮卓はその下で中衛府記室参軍となった。
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[[582年]](太建14年)、始興王陳叔陵が反乱を起こして敗死したが、阮卓は陳叔陵の反乱に同調していなかったことから、[[後主 (陳)|後主]]に罪を問われなかった。[[583年]]([[至徳 (陳)|至徳]]元年)、入朝して徳教殿学士となった。[[585年]](至徳3年)、通直散騎常侍を兼ね、王話を主使とする[[隋]]への使節に参加し、副使をつとめた。隋の[[楊堅|文帝]]は阮卓の名声を聞いており、[[薛道衡]]や[[顔之推]]らに迎えさせ、宴席でともに詩を賦させて礼遇を示した。帰国すると、招遠将軍・南海王府諮議参軍に任じられた。眼病により官職づとめに耐えなくなったため、里舎に隠居した。堂宇を改築し、庭園を整えて、友人たちを客に招き、文章と酒を楽しむ生活を送った。[[589年]]([[禎明]]3年)、陳が隋に滅ぼされると、[[関中]]に入る途中に江州で病に倒れ、死去した。享年は59。
[[582年]](太建14年)、始興王陳叔陵が反乱を起こして敗死したが、阮卓は陳叔陵の反乱に同調していなかったことから、[[後主 (陳)|後主]]に罪を問われなかった。[[583年]]([[至徳 (陳)|至徳]]元年)、入朝して徳教殿学士となった。[[585年]](至徳3年)、通直散騎常侍を兼ね、王話を主使とする[[隋]]への使節に参加し、副使をつとめた。隋の[[楊堅|文帝]]は阮卓の名声を聞いており、[[薛道衡]]や[[顔之推]]らに迎えさせ、宴席でともに詩を賦させて礼遇を示した。帰国すると、招遠将軍・南海王府諮議参軍に任じられた。眼病により官職づとめに耐えなくなったため、里舎に隠居した。堂宇を改築し、庭園を整えて、友人たちを客に招き、文章と酒を楽しむ生活を送った。[[589年]]([[禎明]]3年)、陳が隋に滅ぼされると、[[関中]]に入る途中に江州で病に倒れ、死去した。享年は59。

2020年8月27日 (木) 22:28時点における版

阮卓(げん たく、531年 - 589年)は、南朝陳官僚文人本貫陳留郡尉氏県

経歴

の寧遠岳陽王府記室参軍の阮問道の子として生まれた。幼くして聡明で、経書を精読し、談論にたくみで、五言詩を最も得意とした。父の問道は岳陽王蕭詧の下で江州に赴任し、阮卓が15歳のときに死去した。阮卓は建康から駆けつけ、水や飲み物すら何日も口に入れなかった。侯景の乱が起こり、交通が遮断されていたが、阮卓は危険をかえりみず、父の柩を連れて建康に帰った。

559年永定3年)、陳の文帝が即位すると、阮卓は軽車鄱陽王府外兵参軍に任じられた。566年天康元年)、雲麾新安王府記室参軍に転じた。新安王陳伯固の転府に従い、翊右記室となり、撰史著士を兼ねた。後に鄱陽王中衛府録事に転じ、さらに晋安王府記室をつとめた。570年太建2年)に欧陽紇の乱が鎮圧されて以降、交阯の諸民族がたびたび反抗したため、阮卓は宣帝の命を受けてかれらの招慰にあたった。交阯は南方の日南郡象郡に道が通じていて、金翠珠貝の珍しい物産が多く、前後の使者たちはそれらの財宝を持ち帰っていたが、ひとり阮卓は何も持たずに帰ってきたため、当時の人々はその清廉ぶりに感心した。衡陽王府中録事参軍に転じた。入朝して尚書祠部郎となった。577年(太建9年)、始興王陳叔陵揚州刺史となると、阮卓はその下で中衛府記室参軍となった。

582年(太建14年)、始興王陳叔陵が反乱を起こして敗死したが、阮卓は陳叔陵の反乱に同調していなかったことから、後主に罪を問われなかった。583年至徳元年)、入朝して徳教殿学士となった。585年(至徳3年)、通直散騎常侍を兼ね、王話を主使とするへの使節に参加し、副使をつとめた。隋の文帝は阮卓の名声を聞いており、薛道衡顔之推らに迎えさせ、宴席でともに詩を賦させて礼遇を示した。帰国すると、招遠将軍・南海王府諮議参軍に任じられた。眼病により官職づとめに耐えなくなったため、里舎に隠居した。堂宇を改築し、庭園を整えて、友人たちを客に招き、文章と酒を楽しむ生活を送った。589年禎明3年)、陳が隋に滅ぼされると、関中に入る途中に江州で病に倒れ、死去した。享年は59。

伝記資料