コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「阿史那献」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 瑗瑋璟を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (宋璟) - log
タグ: 手動差し戻し
6行目: 6行目:
[[長安 (元号)|長安]]3年([[703年]])、献は呼び還されると、かさねて右驍衛大将軍を授かり、父の興昔亡可汗を襲名し、安撫招慰十姓大使に充てられた<ref>『新唐書』ではさらに「北庭大都護を継承させた」とある。</ref>。献の本国(西突厥)では、次第に[[阿史那默啜|默啜]]と[[烏質勒]]の侵略を受けていたため、献は敢えて本国へ帰国しようとはしなかった。
[[長安 (元号)|長安]]3年([[703年]])、献は呼び還されると、かさねて右驍衛大将軍を授かり、父の興昔亡可汗を襲名し、安撫招慰十姓大使に充てられた<ref>『新唐書』ではさらに「北庭大都護を継承させた」とある。</ref>。献の本国(西突厥)では、次第に[[阿史那默啜|默啜]]と[[烏質勒]]の侵略を受けていたため、献は敢えて本国へ帰国しようとはしなかった。


しばらくして、唐は献を磧西節度使に抜擢した。十姓部落(西突厥)の[[都擔]](とたん)が反乱を起こすと、献はこれを攻撃して斬り、その首級を宮廷へ送った。さらに献は[[チュイ川|碎葉(スーヤーブ)]]以西の帳落三万を中国に内屬させたため<ref>[[松田寿男]]は「西突厥の余燼としての都擔の叛乱は、開元二年(714年)三月に鎮定され、六月に張本人の首が長安に梟けられ、十月にはこの乱を起こした都擔が本拠にしたらしい胡禄屋部などの内属があったことがわかる」、「問題の文中に、都擔の乱の平定を書いて『碎葉以西の帳落三万の内属』を収めたとあるのは、『碎葉以東の帳落、云々』に改めてよい。何となれば、胡禄屋が属していた咄陸部は、明らかに碎葉以東に居り、碎葉以西の五弩失畢部は、突騎施部に固く握られていたと思われるからである」としている。≪佐口・山田・護 1972,p287-288≫</ref>、朝廷は璽書を下してこれを喜んだ。葛邏禄([[カルルク]]),胡禄屋,鼠尼施の三姓はすでに中国に内屬していだが、これらが默啜の侵掠をうけたので、献を定遠道大総管とし、北庭都護の[[湯嘉恵]]らと前後応じてこれにあたらせた。ここにおいて突騎施([[テュルギシュ]])はこの辺境での争いを密かに利用したため、献は軍隊の増援を乞い、自身は入朝したいと願い出たが、[[玄宗 (唐)|玄宗]]は許さなかった。玄宗は詔で左武衛中郎将の[[王恵]]に節を持たせ、献を安んじいたわらせる一方で、突騎施都督で車鼻施啜の[[蘇禄]]を順国公にしようとした。しかしながら、突騎施はすでに撥換と大石城を包囲し、さらに四鎮を占領しようとしていた。ちょうど湯嘉恵が安西副大都護に拝せられ、すぐさま三姓葛邏禄(ウチュ・カルルク)の兵を献と共にこれを撃った。玄宗は王恵に詔し、これらと力を合わせて経略させようとしたが、宰相の[[宋エイ|宋璟]]と[[蘇テイ|蘇頲]]が「突騎施が叛き、葛邏禄がそれを攻撃していますが、これは夷狄どもが自ら互いに滅ぼしあっているのであって、朝廷から出たことではありません。彼らのうちで強大な方が傷つき、弱小な方が滅びるならば、わが国にとって好都合であります。王恵が赴いて慰撫しようとしている時にあたって、軍隊によって干渉すべきではありません。」と言ったため、中止となった。献は結局、突騎施の[[娑葛]]<ref>松田寿男と[[シャヴァンヌ]]はこのときすでに娑葛は死んでいたから、ここでの娑葛は突騎施可汗となった蘇禄を指すとしている。≪佐口・山田・護 1972,p289≫</ref>が強気で他人の言に耳をかさず、これをおさえきれないので、中国に帰還した。<ref>『[[新唐書]]』列伝一百四十下</ref>
しばらくして、唐は献を磧西節度使に抜擢した。十姓部落(西突厥)の[[都擔]](とたん)が反乱を起こすと、献はこれを攻撃して斬り、その首級を宮廷へ送った。さらに献は[[チュイ川|碎葉(スーヤーブ)]]以西の帳落三万を中国に内屬させたため<ref>[[松田寿男]]は「西突厥の余燼としての都擔の叛乱は、開元二年(714年)三月に鎮定され、六月に張本人の首が長安に梟けられ、十月にはこの乱を起こした都擔が本拠にしたらしい胡禄屋部などの内属があったことがわかる」、「問題の文中に、都擔の乱の平定を書いて『碎葉以西の帳落三万の内属』を収めたとあるのは、『碎葉以東の帳落、云々』に改めてよい。何となれば、胡禄屋が属していた咄陸部は、明らかに碎葉以東に居り、碎葉以西の五弩失畢部は、突騎施部に固く握られていたと思われるからである」としている。≪佐口・山田・護 1972,p287-288≫</ref>、朝廷は璽書を下してこれを喜んだ。葛邏禄([[カルルク]]),胡禄屋,鼠尼施の三姓はすでに中国に内屬していだが、これらが默啜の侵掠をうけたので、献を定遠道大総管とし、北庭都護の[[湯嘉恵]]らと前後応じてこれにあたらせた。ここにおいて突騎施([[テュルギシュ]])はこの辺境での争いを密かに利用したため、献は軍隊の増援を乞い、自身は入朝したいと願い出たが、[[玄宗 (唐)|玄宗]]は許さなかった。玄宗は詔で左武衛中郎将の[[王恵]]に節を持たせ、献を安んじいたわらせる一方で、突騎施都督で車鼻施啜の[[蘇禄]]を順国公にしようとした。しかしながら、突騎施はすでに撥換と大石城を包囲し、さらに四鎮を占領しようとしていた。ちょうど湯嘉恵が安西副大都護に拝せられ、すぐさま三姓葛邏禄(ウチュ・カルルク)の兵を献と共にこれを撃った。玄宗は王恵に詔し、これらと力を合わせて経略させようとしたが、宰相の[[宋璟]]と[[蘇テイ|蘇頲]]が「突騎施が叛き、葛邏禄がそれを攻撃していますが、これは夷狄どもが自ら互いに滅ぼしあっているのであって、朝廷から出たことではありません。彼らのうちで強大な方が傷つき、弱小な方が滅びるならば、わが国にとって好都合であります。王恵が赴いて慰撫しようとしている時にあたって、軍隊によって干渉すべきではありません。」と言ったため、中止となった。献は結局、突騎施の[[娑葛]]<ref>松田寿男と[[シャヴァンヌ]]はこのときすでに娑葛は死んでいたから、ここでの娑葛は突騎施可汗となった蘇禄を指すとしている。≪佐口・山田・護 1972,p289≫</ref>が強気で他人の言に耳をかさず、これをおさえきれないので、中国に帰還した。<ref>『[[新唐書]]』列伝一百四十下</ref>


[[開元]]中([[713年]] - [[741年]])、かさねて右金吾大将軍に遷ったが、[[長安]]で死去した。<ref>『旧唐書』列伝第一百四十四下</ref>
[[開元]]中([[713年]] - [[741年]])、かさねて右金吾大将軍に遷ったが、[[長安]]で死去した。<ref>『旧唐書』列伝第一百四十四下</ref>

2020年8月26日 (水) 23:30時点における版

阿史那 献(あしな けん、ピンイン:Āshǐnà Xiàn)は、西突厥可汗で、の軍人。阿史那元慶の子。

生涯

如意元年(692年)、元慶は彼が謀反を謀ったという来俊臣の讒言にあって殺害され[1]、その子の献は崖州へ流刑に処された[2]

長安3年(703年)、献は呼び還されると、かさねて右驍衛大将軍を授かり、父の興昔亡可汗を襲名し、安撫招慰十姓大使に充てられた[3]。献の本国(西突厥)では、次第に默啜烏質勒の侵略を受けていたため、献は敢えて本国へ帰国しようとはしなかった。

しばらくして、唐は献を磧西節度使に抜擢した。十姓部落(西突厥)の都擔(とたん)が反乱を起こすと、献はこれを攻撃して斬り、その首級を宮廷へ送った。さらに献は碎葉(スーヤーブ)以西の帳落三万を中国に内屬させたため[4]、朝廷は璽書を下してこれを喜んだ。葛邏禄(カルルク),胡禄屋,鼠尼施の三姓はすでに中国に内屬していだが、これらが默啜の侵掠をうけたので、献を定遠道大総管とし、北庭都護の湯嘉恵らと前後応じてこれにあたらせた。ここにおいて突騎施(テュルギシュ)はこの辺境での争いを密かに利用したため、献は軍隊の増援を乞い、自身は入朝したいと願い出たが、玄宗は許さなかった。玄宗は詔で左武衛中郎将の王恵に節を持たせ、献を安んじいたわらせる一方で、突騎施都督で車鼻施啜の蘇禄を順国公にしようとした。しかしながら、突騎施はすでに撥換と大石城を包囲し、さらに四鎮を占領しようとしていた。ちょうど湯嘉恵が安西副大都護に拝せられ、すぐさま三姓葛邏禄(ウチュ・カルルク)の兵を献と共にこれを撃った。玄宗は王恵に詔し、これらと力を合わせて経略させようとしたが、宰相の宋璟蘇頲が「突騎施が叛き、葛邏禄がそれを攻撃していますが、これは夷狄どもが自ら互いに滅ぼしあっているのであって、朝廷から出たことではありません。彼らのうちで強大な方が傷つき、弱小な方が滅びるならば、わが国にとって好都合であります。王恵が赴いて慰撫しようとしている時にあたって、軍隊によって干渉すべきではありません。」と言ったため、中止となった。献は結局、突騎施の娑葛[5]が強気で他人の言に耳をかさず、これをおさえきれないので、中国に帰還した。[6]

開元中(713年 - 741年)、かさねて右金吾大将軍に遷ったが、長安で死去した。[7]

脚注

  1. ^ 『新唐書』では「腰斬の刑(斧鉞で胴切りにする刑罰)に処された」とされている。
  2. ^ 『新唐書』では「振州に流した」としている。
  3. ^ 『新唐書』ではさらに「北庭大都護を継承させた」とある。
  4. ^ 松田寿男は「西突厥の余燼としての都擔の叛乱は、開元二年(714年)三月に鎮定され、六月に張本人の首が長安に梟けられ、十月にはこの乱を起こした都擔が本拠にしたらしい胡禄屋部などの内属があったことがわかる」、「問題の文中に、都擔の乱の平定を書いて『碎葉以西の帳落三万の内属』を収めたとあるのは、『碎葉以東の帳落、云々』に改めてよい。何となれば、胡禄屋が属していた咄陸部は、明らかに碎葉以東に居り、碎葉以西の五弩失畢部は、突騎施部に固く握られていたと思われるからである」としている。≪佐口・山田・護 1972,p287-288≫
  5. ^ 松田寿男とシャヴァンヌはこのときすでに娑葛は死んでいたから、ここでの娑葛は突騎施可汗となった蘇禄を指すとしている。≪佐口・山田・護 1972,p289≫
  6. ^ 新唐書』列伝一百四十下
  7. ^ 『旧唐書』列伝第一百四十四下

参考資料

  • 旧唐書』(列伝第一百四十四下 突厥下)
  • 新唐書』(列伝一百四十下 西突厥)
  • 佐口・山田・護訳注『騎馬民族誌2正史北狄伝』(1972年、平凡社)