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'''孫 臏'''(そん ぴん、[[紀元前4世紀]]頃)は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[田斉|斉]]の[[軍人]]・[[思想家]]。[[兵家]]の代表的人物の一人。[[孫武]]の子孫であるとされ、孫武と同じく[[孫子]]と呼ばれる。『[[孫ピン兵法|孫臏兵法]]』は孫臏の手によると推定されている。この他にも『[[孫ピン拳|孫臏拳]]』も彼が創始したと伝えられている。現代中国の簡体字では孙膑と表記される。
'''孫 臏'''(そん ぴん、[[紀元前4世紀]]頃)は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[田斉|斉]]の[[軍人]]・[[思想家]]。[[兵家]]の代表的人物の一人。[[孫武]]の子孫であるとされ、孫武と同じく[[孫子]]と呼ばれる。『[[孫臏兵法]]』は孫臏の手によると推定されている。この他にも『[[孫ピン拳|孫臏拳]]』も彼が創始したと伝えられている。現代中国の簡体字では孙膑と表記される。


== 略歴 ==
== 略歴 ==
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== 孫臏兵法 ==
== 孫臏兵法 ==
孫臏は[[孫武]]と同じく兵法書を著したが、彼の兵法は孫武の『[[孫子 (書物)|孫子]]』と区別して『斉孫子』などと呼ばれていたらしい。しかしながら、次第に散逸し、あるいは現存する『孫子』自体が孫臏の著作ではないかとも推定されていたが、[[1972年]]に至って[[山東省]]で孫臏の著した兵法書の[[竹簡孫子]]が発掘されたことにより、『孫子』の著者ではないことが明らかになった。この新出土の兵法書は『[[孫ピン兵法|孫臏兵法]]』と名づけられている<ref>詳しくは、[[金谷治]]訳注『孫臏兵法』-もうひとつの[[孫子]]』([[ちくま学芸文庫]] [[2008年]])</ref>。
孫臏は[[孫武]]と同じく兵法書を著したが、彼の兵法は孫武の『[[孫子 (書物)|孫子]]』と区別して『斉孫子』などと呼ばれていたらしい。しかしながら、次第に散逸し、あるいは現存する『孫子』自体が孫臏の著作ではないかとも推定されていたが、[[1972年]]に至って[[山東省]]で孫臏の著した兵法書の[[竹簡孫子]]が発掘されたことにより、『孫子』の著者ではないことが明らかになった。この新出土の兵法書は『[[孫臏兵法]]』と名づけられている<ref>詳しくは、[[金谷治]]訳注『孫臏兵法』-もうひとつの[[孫子]]』([[ちくま学芸文庫]] [[2008年]])</ref>。


== 孫臏を題材にした作品 ==
== 孫臏を題材にした作品 ==

2020年8月26日 (水) 11:39時点における版

孫臏

孫 臏(そん ぴん、紀元前4世紀頃)は、中国戦国時代軍人思想家兵家の代表的人物の一人。孫武の子孫であるとされ、孫武と同じく孫子と呼ばれる。『孫臏兵法』は孫臏の手によると推定されている。この他にも『孫臏拳』も彼が創始したと伝えられている。現代中国の簡体字では孙膑と表記される。

略歴

前歴

阿(現在の山東省聊城市陽穀県)・鄄(現在の山東省菏沢市鄄城県)の間の辺りにて生まれる。本名およびその父を初めとする家族に付いては不明[1]

若い頃、龐涓と共に兵法を学び[2]、龐涓はに仕官して恵王の元で将軍になることができた。しかし龐涓は孫臏に自分が及ばないことを感じていたので、偽って孫臏を魏へと招待し、孫臏を騙して罪に陥れ、臏刑(両脚を切断する刑)と額に罪人の印であるを入れる刑に処した[3]。その後は軟禁状態にあったが、斉の将軍田忌中国語版が使者として魏へとやってきた際に密かに連絡を取り、その出立に合わせ車の中に隠れて魏を脱出することに成功した。

斉にて

斉では田忌のとなる。ある時、斉王(威王)と公子たちと田忌が馬を三組ずつ出して勝負する競馬を催した。孫臏は田忌に対して、上等の馬が出る競走に田忌の所有する下等の馬、中等の馬が出る競走に上等の馬、下等の馬が出る競走に中等の馬を出させることによって、田忌を二勝一敗させ千金を儲けさせた。これに気を良くした田忌は王に孫臏を推薦し、王は孫臏を兵法の師と仰ぐようになった。

桂陵の戦い

魏がを攻撃し、趙の都を包囲した。趙は斉に救援を求め、斉王は田忌を将軍とし孫臏と共に派遣した。だが、孫臏は趙に向かおうとする田忌を「絡んだ紐を解く時は無闇に引っ張るものではなく、喧嘩を止めさせる時は殴り合いに加わらないものです」と途中で留め、魏本国を攻めさせた。魏の本国には弱小老兵が残っているだけだったので、趙を包囲していた魏の主力軍は慌てて包囲を解き急いで引き返したが、強行軍で疲労困憊したところを斉軍に攻められ大敗(桂陵の戦い)した。こうして孫臏は趙を救った(これが囲魏救趙という故事となった)。

馬陵の戦い

13年の歳月が流れ、魏が龐涓を将軍としてを攻めると、韓より斉へ救援依頼が来た。斉王は、孫臏を主将、田忌を副将にして軍を派遣しようとしたが、孫臏は田忌を推挙し、田忌が主将、孫臏は副将(実質的には軍師)となって韓へ向かった。田忌は前回同様魏の都を攻めようとし、孫臏は「龐涓は同じ過ちを二度繰り返す者ではなく、何かの備えはしているでしょう。しかし様子を伺わなければ分かりませんので、魏の都に向かいましょう」と答えた。孫臏の予測通り、龐涓も流石これに備えて本国にも精強な兵を残しており、斉軍を足止めする一方、韓攻略軍も引き返させた。防衛軍と攻略軍で挟撃しようというのである。これを知った斉軍は撤退するが、龐涓は打撃を与えるべく追撃する。撤退戦であれば追撃する側が圧倒的に有利だからである。

しかし、孫臏は撤退する振りをしつつ、龐涓の「魏の兵は命知らずの猛者だが、斉の兵は臆病者だ」という驕りを逆手に取り、斉軍の陣営のの数を前の日の半分、次の日は更に半分という具合に減らしていき、あたかも斉軍に連日脱走兵が相次いでいるかのように偽装した。追撃する龐涓はこの無様な様子を見て半ば呆れつつも勝利を確信し、あえて歩兵を後にし自ら足の速い精鋭の騎兵を率いて一刻も早く斉軍を捕捉しようと図った。一方、孫臏は、その先の隘路である馬陵(現在の山東省臨沂市郯城県)の地で、仕込みを始める。龐涓の部隊が日暮れに到達するであろう場所に木で障害物をつくり、側の木の枝に板を吊るして「龐涓死於此樹之下(龐涓この樹の下にて死せん)」と書き記させた。そしてその道の両側に1万の兵を伏し、兵たちに「日没のあと此処に火がともるであろうから、それに向かって矢を射よ」と命じた。

果たして計算通り、夜半になって当地に龐涓が到着。障害物に止めさせられた際、なにやら書かれている板があると兵が言ったため、自らこれを読もうと松明の火をかかげた。これに斉軍の伏兵が一斉に矢を放ち、暗中の魏軍は大混乱に陥った。自らが負けたことを悟った龐涓は「遂成豎子之名(遂に豎子の名を成さしむ→これで奴の名声を世に成さしてしまったか)」と言い残して自刎、若しくは矢によりハリネズミとなり戦死。魏の太子申は捕虜にされた[4]。司令官を失った魏軍は斉軍に蹴散らされることになった。

この馬陵の戦いの大勝利により、兵家孫臏の名は天下に響いたと伝えられる。しかし孫臏のその後に付いては史書に記述がない。一説には兵法書を記していたとも言われている。

また、太史公の記述によると世間で軍学について引用する場合、『孫子』十三編の書物を述べないものはないと言われている。「能く之を行う者は未だ必ずしも能く言わず。能く之を言う者は未だ必ずしも能く行わず」という言葉があり、これは孫子が龐涓を計略に落としたのは明察である。だが刑罰のうきめきにあうときの処置を、あらかじめできなかったのは悲しいことであると評価している。 [5]

孫臏兵法

孫臏は孫武と同じく兵法書を著したが、彼の兵法は孫武の『孫子』と区別して『斉孫子』などと呼ばれていたらしい。しかしながら、次第に散逸し、あるいは現存する『孫子』自体が孫臏の著作ではないかとも推定されていたが、1972年に至って山東省で孫臏の著した兵法書の竹簡孫子が発掘されたことにより、『孫子』の著者ではないことが明らかになった。この新出土の兵法書は『孫臏兵法』と名づけられている[6]

孫臏を題材にした作品

脚注

  1. ^ 名前の「臏」は膝蓋骨、転じて足切りの刑のこと(この刑罰は別名「」(ひ)とも「刖」(げつ)ともいう)。これがもとからの本名だとすると、たまたま名前と同じ刑に処せられたことになり偶然にしても出来過ぎであるため、これは臏刑に処せられたがゆえの渾名であって、本名ではないと考えられている。
  2. ^ 通俗小説『孫龐演義』では師は鬼谷子
  3. ^ ただし、これは後世に編まれた『史記』にのみ見られる記述であるため、宮城谷昌光は著書の中で「龐涓による私刑ではなく、何らかの理由で魏の朝廷に処罰された可能性も否定できない」という異説をしばしば唱えている。
  4. ^ 戦国策』「巻23魏2斉魏戦于馬陵」によると、龐涓は斉軍に捕虜にされ、太子申は戦死したと記されている。「龐涓戦于馬陵 魏師大敗 殺太子申 虜龐涓」(原文)。また、『孟子』によると魏の恵王が晩年に孟子と会見した時に「私は先年に、可愛い息子を陣没で失ってしまった」と嘆いていたことが伝えられている。
  5. ^ 小川環樹『史記列伝㈠』岩波書店〈岩波文庫〉、1975年。 
  6. ^ 詳しくは、金谷治訳注『孫臏兵法』-もうひとつの孫子』(ちくま学芸文庫 2008年

外部リンク