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天宝11載([[752年]])、李林甫の死後、[[陳希烈]]を頼り、昇進の道を歩もうとしたが、[[楊国忠]]によって陳希烈は解任される。さらに、弟の張垍の罪に連座し、建安郡太守に左遷させられる。長安に戻った後、大理卿となるが、常に鬱々とした状態であったと伝えられる。天宝14載([[755年]])、安史の乱が勃発し、[[至徳 (唐)|至徳]]元載([[756年]])、長安陥落時に安禄山に降伏し、中書令に任命された<ref>玄宗が[[蜀郡|蜀]]に出奔している最中、腹心の[[高力士]]に「朝臣のうち、誰が来ると思うか?」と尋ねた。高力士は、「張均・張垍兄弟は、代々、国恩を受けており、姻戚にあたりますから(張垍は玄宗の娘の尚寧公主の夫)、必ず来るでしょう。房琯は宰相の地位を望み、かなえられなかった上、安禄山にその器量を買われていたので、絶対に来ないでしょう」と答えた。玄宗は、「まだ、わからない」と語った。結局、来たのは、房琯であり、張均・張垍兄弟は房琯に誘われたが、理由をつけて断っていた。玄宗は高力士にこのことを嘆いたと伝えられる。</ref>。 |
天宝11載([[752年]])、李林甫の死後、[[陳希烈]]を頼り、昇進の道を歩もうとしたが、[[楊国忠]]によって陳希烈は解任される。さらに、弟の張垍の罪に連座し、建安郡太守に左遷させられる。長安に戻った後、大理卿となるが、常に鬱々とした状態であったと伝えられる。天宝14載([[755年]])、安史の乱が勃発し、[[至徳 (唐)|至徳]]元載([[756年]])、長安陥落時に安禄山に降伏し、中書令に任命された<ref>玄宗が[[蜀郡|蜀]]に出奔している最中、腹心の[[高力士]]に「朝臣のうち、誰が来ると思うか?」と尋ねた。高力士は、「張均・張垍兄弟は、代々、国恩を受けており、姻戚にあたりますから(張垍は玄宗の娘の尚寧公主の夫)、必ず来るでしょう。房琯は宰相の地位を望み、かなえられなかった上、安禄山にその器量を買われていたので、絶対に来ないでしょう」と答えた。玄宗は、「まだ、わからない」と語った。結局、来たのは、房琯であり、張均・張垍兄弟は房琯に誘われたが、理由をつけて断っていた。玄宗は高力士にこのことを嘆いたと伝えられる。</ref>。 |
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至徳2載([[757年]])、唐軍の洛陽奪回時に陳希烈・張垍・[[ |
至徳2載([[757年]])、唐軍の洛陽奪回時に陳希烈・張垍・[[達奚珣]]とともに、唐軍に降伏した。皆、死罪にあたった。しかし、房琯が「張説の家が滅亡してしまう」と主張し[[苗晋卿]]に会い、取りなしを依頼した。[[粛宗 (唐)|粛宗]]は、張説に自分の誕生の時に助けられたことがあったため、張均の死罪を免じ<ref>ただし、弟の張垍は助命されず、死罪に処された。</ref>、[[合浦郡|合浦]]に配流した。 |
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[[建中 (唐)|建中]]初年に、太子少傅が贈られ、子の張濛は[[徳宗 (唐)|徳宗]]に仕え、中書舎人に任じられた。 |
[[建中 (唐)|建中]]初年に、太子少傅が贈られ、子の張濛は[[徳宗 (唐)|徳宗]]に仕え、中書舎人に任じられた。 |
2020年8月26日 (水) 08:54時点における版
張 均(ちょう きん、生没年不詳)は、中国の唐の玄宗朝に仕えた政治家。宰相とされる張説の長子であるが、安史の乱の際、安禄山に仕え、宰相に取り立てられたため、配流された。弟に張垍・張埱がいる。
略歴
洛陽の人で、文章詩句に長けていた。太子通事舎人から郎中、中書舎人にまで昇進した。開元17年(729年)には、左丞相である父の張説から京官(長安にいる官僚)の査定評価で「上の下」の評価をもらった。しかし、当時の人々は不公平とは考えなかったと伝えられる。
開元18年(730年)に父の死後、燕国公を襲名する。戸部侍郎・兵部侍郎を歴任するが、連座の罪により、饒州・蘇州の刺史に左遷される。長年かかって、また兵部侍郎に復帰した。自らを宰相の才と自負していたが、李林甫によって妨害されていたと伝えられる。天宝9載(750年)、刑部尚書となる。
天宝11載(752年)、李林甫の死後、陳希烈を頼り、昇進の道を歩もうとしたが、楊国忠によって陳希烈は解任される。さらに、弟の張垍の罪に連座し、建安郡太守に左遷させられる。長安に戻った後、大理卿となるが、常に鬱々とした状態であったと伝えられる。天宝14載(755年)、安史の乱が勃発し、至徳元載(756年)、長安陥落時に安禄山に降伏し、中書令に任命された[1]。
至徳2載(757年)、唐軍の洛陽奪回時に陳希烈・張垍・達奚珣とともに、唐軍に降伏した。皆、死罪にあたった。しかし、房琯が「張説の家が滅亡してしまう」と主張し苗晋卿に会い、取りなしを依頼した。粛宗は、張説に自分の誕生の時に助けられたことがあったため、張均の死罪を免じ[2]、合浦に配流した。
建中初年に、太子少傅が贈られ、子の張濛は徳宗に仕え、中書舎人に任じられた。