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[[290年]]4月、司馬亮はこの時まだ洛陽を発っていなかったので、武帝は改めて司馬亮と楊駿に後事を託そうと考え、[[中書省|中書]]に命じて[[遺詔]]を作らせたが、楊駿は中書の下から遺詔を持ち去ると、自らの都合の良いように作り直した。武帝は死の間際まで司馬亮が来るのを待ったが、楊駿の妨害により果たせなかった。武帝が崩御して司馬衷(恵帝)が後を継ぐと、楊駿は太尉・太子太傅・都督中外諸軍事・侍中・録尚書事に任じられ、朝廷の全権を握った。 |
2020年8月26日 (水) 05:39時点における版
司馬 亮(しば りょう、? - 291年)は、西晋の皇族で八王の乱の八王の1人。字は子翼。司馬懿の第3子。生母は伏貴妃。司馬師・司馬昭の異母弟。司馬伷・司馬京・司馬駿の同母兄。司馬肜・司馬榦・司馬倫の異母兄。諡号は文成王。
生涯
魏の時代
司馬懿と伏夫人との間に生まれた。
曹魏の時代に散騎侍郎に任じられ、万歳亭侯に封じられた。後に東中郎将に転任し、爵位は広陽郷侯に進んだ。
257年、寿春において諸葛誕の乱が勃発すると、司馬亮は反乱鎮圧の為に従軍した。だが、その際に失策を犯してまい、免官となった。
しばらくすると復職を許され、校左将軍・散騎常侍・監豫州諸軍事に任じられると共に仮節を与えられた。
後に祁陽県伯に改封され、鎮西将軍に昇進した。
武帝の時代
265年12月、甥の司馬炎(武帝)が晋王朝を開くと、扶風王に封じられ、食邑1万戸を与えられた。さらに騎司馬・参軍掾属・都督関中雍涼諸軍事に抜擢され、持節を与えられた。
270年6月、鮮卑の禿髪樹機能が涼州・秦州一帯で大規模な反乱を起こし、秦州刺史胡烈は万斛堆(現在の甘粛省白銀市靖遠県)において包囲された。その為、司馬亮は将軍劉旂・騎督敬琰に秦州救援を命じたが、彼らは敵軍を恐れて進軍しなかったので、胡烈は孤立無援となり戦死した。この一件により司馬亮は朝廷より責任を問われて平西将軍に降格となり、劉旂は斬罪に処される事となった。司馬亮は軍司曹冏と共に上言し、此度の過失は自らの責任であると訴え、劉旂の死罪を免じるよう請うた。だが、武帝は詔を下して「高平(現在の寧夏回族自治区固原市原州区)は周囲を包囲されており、まさに危急の時であった。劉旂の兵力をもってすれば救援に赴くには十分であったのに、迅速に赴かずに進軍を躊躇い、あろう事か逃避して秦州(胡烈)の敗北をただ静観していた。故に劉旂の罪は重く、いかに請願されようともこの罪は担わせるべきである」と述べて訴えを退け、さらには司馬亮の官爵を全て剥奪した。
しばらくすると司馬亮は復職を許され、撫軍将軍に任じられた。
同年9月、呉の西陵督歩闡が西陵城ごと西晋へ降伏すると、武帝の命により司馬亮は歩闡の身柄受け入れの任に当たった。だが、それより先に陸抗の侵攻により西陵城は攻め落とされてしまい、歩闡は処断された(西陵の戦い)。
275年、司馬亮は扶風郡池陽県の食邑4100戸を母である伏夫人へ湯沐邑として分け与え、さらには母の為に家令・丞僕を設置した。後にその食邑を南郡枝江県に改めた。
同年、衛将軍に昇進し、侍中を加えられた。当時、西晋の宗室は隆盛を極めており、彼らを管轄して統制しようとする者は誰もいなかった。その為、武帝は司馬亮を宗師に抜擢すると、今までの官爵をそのままに宗室への訓戒・視察の権限を与え、彼らに礼儀や制度を遵守させた。
277年8月、汝南王に改封され、鎮南大将軍・都督豫州諸軍事に任じられた。また、開府を許され、仮節を与えられた。司馬亮が封国である汝南に赴任と、朝廷より車や10輪の白い牛車・銭50万が供給された。
しばらくして再び中央に召喚され、侍中・撫軍大将軍・後軍将軍に任じられた。また、冠軍・歩兵・射声・長水など軍営の統率を任され、500の兵と100の馬を供給された。
その後、太尉・録尚書事・太子太傅に任じられ、侍中は以前通りとされた。
289年11月、武帝は病に倒れると、司馬亮と外戚の楊駿に太子司馬衷の補佐を任せようと考えた。だが、楊駿は司馬亮が権力を握るのを嫌い、皇后である娘の楊芷と共に裏で働きかけ、司馬亮を中央から追い払おうとした。これにより、司馬亮は侍中・大司馬・大都督・豫州諸軍事に任じられて仮黄鉞を与えられ、許昌に出鎮するよう命じられた。また、出発に際しては三面軒県による鐘磬の楽と六佾の舞をもって厚く遇され、子の司馬羕は西陽公に封じられるなど、表向きは多いに重んじられる事となった。
290年4月、司馬亮はこの時まだ洛陽を発っていなかったので、武帝は改めて司馬亮と楊駿に後事を託そうと考え、中書に命じて遺詔を作らせたが、楊駿は中書の下から遺詔を持ち去ると、自らの都合の良いように作り直した。武帝は死の間際まで司馬亮が来るのを待ったが、楊駿の妨害により果たせなかった。武帝が崩御して司馬衷(恵帝)が後を継ぐと、楊駿は太尉・太子太傅・都督中外諸軍事・侍中・録尚書事に任じられ、朝廷の全権を握った。
司馬亮は武帝の訃報を知るも、楊駿の権勢を恐れて宮中には入らずに洛陽城外に滞在し、大司馬門外から哀悼だけを済ませた。この時、朝廷へ上表し、武帝の葬儀が終わったのを見届けてから許昌に出発することを請うた。楊駿は密かに司馬亮を討ち取ろうと目論み、石鑒らに討伐を命じたが、石鑒は従わなかった。楊駿の動きを知った司馬亮は、廷尉何勗の下へ赴いて対応策を尋ねると、何勗は「今、朝臣の心は皆あなたの下にあります。どうして討たれる事ばかりを恐れ、逆に討つ事を考えないのでしょうか」と答えた。また、ある人は司馬亮へ、兵を率いて宮殿へ乗り込んで楊駿を除くよう勧めたが、司馬亮はいずれも用いなかった。結局、司馬亮は夜に洛陽を離れ、許昌に赴いて難を逃れた。
291年1月、恵帝の皇后賈南風は楊駿の権勢を妬み、宦官董猛・孟観・李肇と共に誅殺の計画を練った。また、李肇を許昌に派遣して司馬亮へ楊駿討伐に協力するよう持ちかけたが、司馬亮は応じなかった。3月、賈南風は恵帝の弟である楚王司馬瑋と結託して政変を起こし、楊駿とその三族、また側近の者を尽く捕らえて誅殺した。
朝権を握る
政変の後、恵帝は詔を下し「(大叔父の)大司馬・汝南王亮は中正であり、聖道というものをよく理解している。政務の理にも精通しており、本朝においては補佐として業績を顕現出来得る人材であり、『周南』『召南』の2つの国風で中国において名を残している。今こそその遠大な謀略を頼みとし、王化を批評してもらいたい。よって、司馬亮を太宰・録尚書事に任じ、入朝においては趨行せずとも良く、佩剣・穿鞋を着けたまま上殿する事を許可する。また、隷属を10人増やし、1000の士兵と100の騎士を供給する。太保衛瓘と共に協力して朝政に当たるように」と命じ、司馬亮は衛瓘と共に輔政の任に就いた。
司馬亮はまず人心を得ようと考え、楊駿討伐の功績として1081人を侯に封じた。御史中丞傅咸は司馬亮を諫め「此度のような封侯は古来より例がありません。大した功も無く賞を与えては、国に禍が起きることを願う者が増えるだけです。民は殿下(司馬亮)が国政を正すことを期待していますが、今は不満を抱いております。公平な論功行賞が行われていない事の現れです」と述べた。
司馬亮は実権を握ると殆どの政務を自ら行ったので、傅咸は再び諫めて「楊駿は国主を脅かすほどの権威を持ち、外戚ばかりを登用したので天罰を受けました。今こそ楊駿の過ちを正す時であり、寡欲な心で政務に当たり、細かな事案は各部門に任せるべきです。最近、尊門(司馬亮邸前)には車馬が溢れておりますが、権勢に媚び諂うような風潮は排斥すべきです。また、夏侯長容(夏侯駿、長容は字)は大した功がないにも関わらず少府に抜擢されました。人々は公(司馬亮)と婚姻関係にあるから重用されているのだと噂しています。これも良い風潮ではありません」と諫めたが、司馬亮は聞き入れなかった。
甥の東武公司馬澹は弟の東安公司馬繇と対立しており、司馬亮へ「弟の東安公繇は賞罰を勝手に行い、朝政を壟断しようとしております」と訴えると、司馬亮はこれを信じて司馬繇を罷免し、帯方郡に移らせた。
衛将軍・北軍中候司馬瑋は横暴で殺人を好む人物であり、司馬亮はこれを忌み嫌い、その兵権を奪おうと考えて衛瓘と謀議した。そして、司馬瑋を北軍中候から解任し、臨海侯裴楷をその後任とした。だが、司馬瑋がこれに激怒すると、裴楷は恐れて中候の職を辞した。司馬亮は再び衛瓘と謀り、司馬瑋を始めとした諸王を封国に帰還するよう命じたが、さらに司馬瑋の怒りを買った。司馬瑋は遂に司馬亮らとの対立を表面化させるようになり、側近の長史公孫宏・舎人岐盛の勧めにより、恵帝皇后賈南風と結託するようになった。賈南風はこれを喜び、司馬瑋に太子少傅を兼任させ、封国へ帰還する命令を撥ねつけた。
賈南風はかねてより衛瓘の事を憎んでおり、また司馬亮と衛瓘が政権を掌握していたので賈氏一族の権限が抑え込まれてい事に不満を抱いていた。司馬瑋配下の岐盛もまた衛瓘と対立しており、司馬瑋からの伝言と偽って、賈南風配下の積弩将軍李肇へ「司馬亮と衛瓘は皇帝廃立を企んでいる」と告げた。李肇はこれを賈南風に密告したので、賈南風は司馬亮と衛瓘を除く事を決めた。
最期
6月、賈南風は恵帝に詔を作らせると、司馬瑋へ「太宰(司馬亮)と太保(衛瓘)は伊尹・霍光を模倣して皇帝廃立を企んでいる。王(司馬瑋)は淮南王(司馬允)・長沙王(司馬乂)・成都王(司馬穎)に命じて諸々の宮門を制圧させ、司馬亮と衛瓘の官を免じるように」と命じた。司馬瑋はこれに応じて自ら統括している北軍を動かし、司馬亮と衛瓘の討伐を掲げて決起すると、公孫宏と李肇に司馬亮府を包囲させ、侍中・清河王司馬遐に衛瓘の逮捕を命じた。
司馬亮配下の帳下督李龍は「外で変事がありました。兵を集めて抵抗すべきです」と勧めたが、司馬亮は武力闘争を避けようとした。その間に公孫宏の兵が壁を登って喚声を上げると、司馬亮は驚愕して「我に異心は無いのに何故に兵を向ける。卿等は詔書を持っているのか。もしあるなら見せてくれないか」と問うたが、公孫宏は構わずに攻撃した。長史劉準は司馬亮へ「これは姦謀によるものです。府中には義士・俊才が大勢いるので、力戦すればまだ抵抗できます」と言ったが、司馬亮は抗戦を認めなかったので、遂に李肇に捕縛された。
司馬瑋の配下はみな司馬亮を哀れに思い、昼を過ぎても誰も彼に手を下す事ができなかった。その日は非常に暑かったので、司馬瑋の士兵は司馬亮を車の中に入れ、交代で扇子で仰いでやったという。この光景に業を煮やした司馬瑋は「大叔父の汝南王亮を斬った者には1000匹の布を与えよう」と叫ぶと、司馬瑋の兵士たちは北門の壁下で司馬亮と世子の司馬矩を殺害した。彼の髪の毛は引き抜かれ、鼻や耳も切り取られたという。司馬亮の最期の言葉は「わが赤心(忠心)は破り裂いて、天下に示すべき」であった。衛瓘もまた捕らえられ、誅殺された。
その後、賈南風は司馬瑋に威権が集まる事を恐れ、独断で詔書を偽造して司馬亮と衛瓘を殺害したと宣言し、これを誅殺した。これにより司馬亮の名誉は回復され、爵位を戻されて東園の温明祭器・棺材・朝服1襲・銭300万・布絹300匹を下賜された、喪葬の礼は安平献王司馬孚と同様の規模で執り行われた。「文成」と諡され、廟内には鐘磬の楽が飾り付けられた。
司馬亮の非業の死がきっかけとなり、西晋は八王の乱という大規模な内乱に発展していった。
子孫の多くは司馬睿の東晋建国に従い(五馬渡江)、相次ぐ政争で家格を落としつつも、その血脈を江南で保つことには成功している。
人物
幼い頃より機敏であり、才幹を有していた。また、清廉・公正である事で評判であった。
逸話
母の伏夫人が軽い病を患った時、司馬亮は洛水にある祭祀に出向いてお祓いを行った。また、弟2人と共に持節と鼓吹を携えて常に傍に侍って世話をしたので、洛水一帯では彼の徳望が知れ渡ったという。武帝は凌雲台に昇って司馬亮が孝行に励む姿を望見すると「伏妃(伏夫人)が富貴であるのは、こういう事であるな」と喜んだという。
宗室
子女
- 世子 司馬粋(早世)
- 汝南懐王 司馬矩
- 汝南威王 司馬祐(司馬矩の子。五馬渡江の一人)
- 西陽王 司馬羕(五馬渡江の一人。のち、蘇峻の乱に加わり刑死)
- 南頓王 司馬宗(五馬渡江の一人。庾亮と対立して滅ぼされる)
- 汝陽王 司馬熙(永嘉の乱で戦死)
- 裴楷の子の裴輿の妻
- 夏侯威の子の夏侯駿の妻