李龍
李龍 | |
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生誕 |
1923年8月4日 日本統治下朝鮮咸鏡北道鏡城郡 |
死没 |
2009年9月10日(86歳没) 大韓民国江原道旌善郡 |
所属組織 |
満州国軍 大韓民国陸軍 |
最終階級 |
少尉(満州国軍) 少将(韓国陸軍) |
墓所 | 国立大田顕忠院将軍第2墓域61号 |
李 龍(イ・ヨン、이용、1923年8月4日 - 2009年9月10日)は、大韓民国の軍人、政治家。本来の名前は李集龍(イ・ジムニョン、이집룡)だったが、戦後に李龍に改名した[1]。創氏改名による日本名は大橋集龍[2]。
経歴
[編集]1923年8月、咸鏡北道鏡城郡に生まれる。1938年、二等兵として間島特設隊に入隊[1]。1942年から1944年まで奉天陸軍訓練学校(第7期[3])に在校[1]。卒業後は機迫連(機関銃迫撃砲中隊)排長となる[1][2]。
1948年4月、警備士官学校第5期卒業、任少尉、第6連隊第11中隊長兼陸士第7期士官候補生連隊教育隊長。
1948年7月、陸軍士官学校教官。
1949年6月、第12連隊(連隊長:姜英勲大領)第1大隊副大隊長。甕津半島で多発していた国境紛争に参加。
1949年7月、陸軍歩兵学校戦術学教官。
1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発すると混成連隊(連隊長:兪海濬中領)作戦主任将校として臨津江の戦闘に参加。6月29日から始興地区戦闘司令官(金弘壹少将)補佐官として漢江の戦いに参加。
1950年7月から閔キ植部隊作戦参謀として湖南方面の遅滞に参加。
1950年8月、首都師団(師団長:白仁燁大領)作戦参謀(中領)として杞渓・安康の戦いに参加。
1951年3月、首都師団第1機甲連隊長(大領)。東部の高地争奪戦を指導。同年11月から白野戦戦闘司令部(司令官:白善燁少将)による南部軍討伐作戦に参加。1952年7月の首都高地・指形稜線の戦闘に参加。
1952年9月、陸軍本部作戦参謀部作戦課長。
1953年6月、第8師団副師団長。同年7月に勃発した金城の戦いに参加。
1954年7月、アメリカ陸軍歩兵学校高等軍事班卒業。
1954年8月、陸軍本部作戦参謀部企画課長。
1954年9月、第3軍団(軍団長:姜文奉少将)参謀長。
1955年6月1日、准将昇進。同年10月、陸軍士官学校生徒隊長。
1957年3月、陸軍大学卒業。
1957年4月、陸軍教育総本部管理参謀部長。
1957年6月、第1軍作戦参謀。
1958年3月、第12師団長。
1959年7月、第6師団長。
1960年4月、陸軍歩兵学校校長。
1961年6月、陸軍大学院卒業。
1961年7月、陸軍本部作戦参謀部次長。
1961年8月、江原道知事。
1964年1月、陸軍本部企画統制室長。
1965年7月、予備役編入。
1966年4月、無任所長官特別補佐官。
1966年9月、交通部次官。
1970年10月、鉄道庁長。
1973年6月、仁川合金鉄株式会社代表取締役社長。
1976年2月、仁川製鉄株式会社代表取締役社長。
1992年12月、星友会事務総長。
叙勲
[編集]出典
[編集]参考
[編集]- 陸軍士官学校総同窓会
- 김주용 (2008). “만주지역 간도특설대의 설립과 활동”. 한일관계사연구 (한일관계사학회) 31: 169-199 .