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[[1911年]]([[宣統]]3年)の[[武昌起義]]に際しては、職務放棄の咎で罷免されてしまう。まもなく[[北京市|北京]]に召還され、京防営務処総弁に就任した。また、このときに、[[唐山市|灤州]]起義で逮捕された馮玉祥の釈放に助力している。[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)、北京総統府警衛軍参謀官、左路備補軍統領をつとめる。さらに警衛軍統領兼北京軍警執法処処長に昇進した。 |
2020年8月26日 (水) 05:34時点における版
陸建章 | |
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プロフィール | |
出生: | 1862年(清同治元年)[1] |
死去: |
1918年(民国7年)6月14日 中華民国天津市 |
出身地: | 清安徽省潁州府蒙城県 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 陸建章 |
簡体字: | 陆建章 |
拼音: | Lù Jiànzhāng |
ラテン字: | Lu Chien-chang |
和名表記: | りく けんしょう |
発音転記: | ルー ジエンジャン |
陸 建章(りく けんしょう)は清末民初の軍人、政治家。北京政府、直隷派に属した。なお、馮玉祥は、陸の甥の娘婿という親族関係がある。字は朗斎。号は八庚。
事跡
1881年(光緒7年)に淮軍に参加した。1885年(光緒11年)、天津武備学堂に入学する。1887年(光緒13年)、同学堂の教官となった。1895年(光緒21年)に袁世凱の新建陸軍に加わる。順調に昇進を重ね、1905年(光緒31年)、第6鎮第11協統領官[2]に就任した。さらに山東曹州鎮総兵、広東高州鎮総兵、広東北海鎮総兵を歴任している。
1911年(宣統3年)の武昌起義に際しては、職務放棄の咎で罷免されてしまう。まもなく北京に召還され、京防営務処総弁に就任した。また、このときに、灤州起義で逮捕された馮玉祥の釈放に助力している。1912年(民国元年)、北京総統府警衛軍参謀官、左路備補軍統領をつとめる。さらに警衛軍統領兼北京軍警執法処処長に昇進した。
1914年(民国3年)、所属部隊は陸軍第7師に改組され、陸建章は同師師長兼豫陝剿匪督弁に任命される。陝西省などで活動する白朗の討伐に従事した。同年6月、張鳳翽の後任として陝西都督に就任し、まもなく威武将軍督理陝西軍務(陝西将軍)に任命された。1915年(民国4年)12月の袁世凱の皇帝即位でも、陸はこれを支持し、一等伯爵に封じられた。
しかし、護国戦争(第三革命)が発生し、袁世凱が皇帝即位を取り消すと、陸建章の陝西省における権威は崩壊していく。1916年(民国5年)5月9日、配下の陝北鎮守使陳樹藩が独立を宣言し、また、子の陸承武も革命派の鎮圧に向かって逆に兵変で捕虜とされた。陸建章は、陸承武の身柄引渡しなどを条件に、陳に陝西省の統治権を譲渡し、北京に逃げ帰った。
北京に戻ってからは、陸建章は直隷派に属し、第16混成旅を率いる馮玉祥を利用して北京政府内で台頭を目指す。1917年(民国6年)、炳威将軍に任命され、さらに総統府高等軍事顧問に就任した。安徽派と直隷派の南方政府をめぐる路線対立では、直隷派の重要幹部として、さまざまな謀略を駆使した。しかし、段祺瑞ら安徽派の陸に対する反感が強まっていく。
1918年(民国7年)6月14日、陸は天津で安徽派の徐樹錚の急襲を受けて暗殺されてしまった。享年57。後に馮玉祥は、陸の復仇として、徐を暗殺している。
注
参考文献
- 邵桂花「陸建章」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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