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2020年8月26日 (水) 05:21時点における版
騎 劫(き ごう、生年不明 - 紀元前279年)は、中国戦国時代の燕の将軍。昭王の後を継いだ恵王に楽毅に代わる斉攻めの将軍に任じられた。
経歴
燕は紀元前314年、子之の乱による混乱を突かれ斉の宣王が公子職(後の昭王)の支援を名目に派遣した匡章率いる斉軍により国都の薊が陥され紀元前312年に斉が濮上の戦いで秦に大敗して燕から撤退する前後に昭王が即位するまで一時的に滅亡することとなった。
燕の王位を継いだ昭王は表向きは斉に従属しつつ国威復興に勤め有能な士を集めて厚遇し、後に斉の湣王が即位し、蘇秦や蘇代の活動で周辺諸国への出兵や恫喝・経済的浪費を繰り返して斉の国力と各国からの信望が低下したのを見計らい、紀元前284年に秦・魏・趙・韓の4国と連衡して斉に対し戦を仕掛け、楽毅率いる5国連衡軍は斉を莒と即墨の2城を残して滅亡寸前まで追い込んだ[1][2](合従攻斉の戦い・済西の戦い)。
紀元前279年に燕の昭王が亡くなり恵王が跡を継ぐと、太子時代から恵王と楽毅の仲が悪かった事を利用した斉の将田単は燕に楽毅が斉を統一すると、王として自立する旨の噂を流した。これを信じた恵王は楽毅を召還しようとしたが、楽毅は趙に亡命してしまったため、代わりの将として騎劫を任命する[3][4]が、騎劫には楽毅ほどの将器はなく、また不等な人事に嫌気がさした燕軍は戦意が低下し、最終的には田単の火牛の策で燕軍は大敗し騎劫も戦死、斉は燕に奪われた70余の城を取り戻しその国土を回復するに至った[5][6](即墨の戦い)。
参考文献
- 『史記』「楽毅列伝」
脚注
- ^ 『史記』巻三十四 燕召公世家第四:二十八年,燕国殷富,士卒楽軼軽戦,於是遂以楽毅為上将軍,与秦・楚・三晋合謀以伐斉。斉兵敗,湣王出亡於外。燕兵独追北,入至臨淄,尽取斉宝,焼其宮室宗廟。斉城之不下者,独唯聊・莒・即墨,其餘皆属燕,六歳。
- ^ 『史記』巻八十 楽毅列伝第二十:燕昭王悉起兵,使楽毅為上将軍,趙恵文王以相国印授楽毅。楽毅於是並護趙・楚・韓・魏・燕之兵以伐斉,破之済西。諸侯兵罷帰,而燕軍楽毅独追,至于臨淄。斉湣王之敗済西,亡走,保於莒。楽毅独留徇斉,斉皆城守。楽毅攻入臨淄,尽取斉宝財物祭器輸之燕。燕昭王大悦,親至済上労軍,行賞饗士,封楽毅於昌国,号為昌国君。於是燕昭王収斉鹵獲以帰,而使楽毅復以兵平斉城之不下者。楽毅留徇斉五歳,下斉七十餘城,皆為郡県以属燕,唯独莒・即墨未服。
- ^ 『史記』巻三十四 燕召公世家第四:昭王三十三年卒,子恵王立。恵王為太子時,与楽毅有隙;及即位,疑毅,使騎劫代将。楽毅亡走趙。
- ^ 『史記』巻八十 楽毅列伝第二十:会燕昭王死,子立為燕恵王。恵王自為太子時嘗不快於楽毅,及即位,斉之田単聞之,乃縦反間於燕,曰:“斉城不下者両城耳。然所以不早抜者,聞楽毅与燕新王有隙,欲連兵且留斉,南面而王斉。斉之所患,唯恐他将之来。”於是燕恵王固已疑楽毅,得斉反間,乃使騎劫代将,而召楽毅。楽毅知燕恵王之不善代之,畏誅,遂西降趙。
- ^ 『史記』巻三十四 燕召公世家第四:田単以即墨撃敗燕軍,騎劫死,燕兵引帰,斉悉復得其故城。
- ^ 『史記』巻八十 楽毅列伝第二十:斉田単後与騎劫戦,果設詐誑燕軍,遂破騎劫於即墨下,而転戦逐燕,北至河上,尽復得斉城,而迎襄王於莒,入于臨淄。