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#[[李鴻章]]と洋商が組んで、[[左宗棠]]の大商人[[胡雪巌]]と関係するに至ったという。 |
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2020年8月26日 (水) 05:17時点における版
野史(やし、拼音: )とは、
余嘉錫は『小説家出於稗官説』のなかで、「稗官者天子之士也」としている。周楞伽の『稗官考』では、稗官は「天子之士」であるという説に反対している。
中国歴代王朝の正史は皆儒家や士大夫が編集したものである。正史においては勝者を王となしており、また儒学の理想に合うようになっており、曲筆や欺瞞もないわけではない。『論語』の中で紂王が「天下之悪皆帰焉」とされているように、正史では真実が隠されていることがある。また、苻堅の即位に関する記載など、事蹟が改竄されていることもある[1]。唐太宗は、玄武門の変についても記述を変えさせている[2]。野史は中国の歴史の真相を研究する上では、参考にする価値があり、軽んずるべきものではないとされている[3]。
野史で語られる巷説・珍説の例
野史とは本来、正規の政府が編纂した物ではないもの、すなわち私人や私企業もしくは名も伝わらぬ編纂者・著者が、己の観点から編纂した物であるが、以下はいわゆる巷説や、創作文芸が真実だと誤解され、そのまま民間に流布したもの、極少数であろうとも一定数の”史料を重んじない者”が真実だと信じてしまっているもの、なども含まれる。
中国史の例
- 周朝の時、老子は函谷関を出た後、天竺に行き、釈迦牟尼となったという。これを老子化胡という。
- 秦始皇は、呂不韋の私生子であり、胎内に十二個月いて生まれたとされている。
- 徐福は日本にわたり、はなはだしくは、神武天皇になったという。
- 楊貴妃は馬嵬で自殺せずに、日本に逃げたという。
- 宋の太宗は兄の太祖を殺して皇帝となった。人は斧声燭影という。これは、僧文瑩の『続湘山野録』に記されている。
- 宋の高宗の子供が死んだ後、宋太祖のが夢に出てきて、宋太宗によって位を奪われたので、高宗のあとは太祖の末裔をたてて、孝宗としたという。
- 朱元璋は、元末劉伯温の献策をいれて、月餅の中に「八月十五殺韃子」と書かれた紙を入れて、各地の百姓を一斉に蜂起させた。この故事の雛型は清朝光緒年間に刊行された徐大焯の『燼余録』にある。
- 朱元璋が長城を修理したときに、富商沈万三に命じてその三分の二を出資させた。金陵城を修理したとき、沈万三に命じてその三分の一を出資させた。しかる後褒美として禁軍の一人一両銀を与えたところ、その合計が白銀数百万両となり、沈万三は意にかえさなかったという。
- 朱元璋は南京の珠璣巷の居民が馬皇后を辱めたので、彼らを青海に移したという。
- 朱元璋は湖広参政の易華を殺そうとしたが、易華は民衆の示威抗議を組織した。怒った朱元璋は湖南の四箇所を屠城した。これが朱元璋血洗湖南であるという。
- 建文帝は靖難の変の時、和尚に化けて、皇宮から逃げ出した(『明史紀事本末』)。その後、華南各地を経て、東南アジアにまで逃亡したという。
- 永楽帝は朱元璋が朝鮮か蒙古の寵妃に生ませた子であるという。
- 永楽帝が帝と称したとき、方孝孺が屈せず、朱棣が方孝孺の「九族を誅する」と言ったのに対し、方孝孺が「十族を誅されても」といったので、門人も一族に数えて、十族を滅っしたという。
- 鄭和が大航海に出た理由の一つは、建文帝をさがすことであったという。
- 明の英宗が宮中で一人の老和尚を養っていたが、これは年老いた建文帝であるという。
- 李自成は宦官魏忠賢が若いときに生ませた子供であるという。
- 李自成は失敗したあと、出家して奉天玉と名乗ったという。
- 万暦帝は三十年間、朝廷に望まず政治を行わなかったのは、阿片が原因だという。
- 崇禎帝が李自成に攻め込まれた時、自殺したのは身代わりで、本人は紫禁城を逃げだし、天津から船で日本か台湾に逃げたという。
- 崇禎帝の子朱慈煥は、明末に死んだと偽り、康煕年間に清に反攻する運動を続けたという。
- 孝荘文皇后はその子を順治帝に擁立した後、自分はドルゴンに嫁いだという。
- 順治帝は、董鄂妃死後、出家したという。これは、『清稗類鈔』にある。
- 順治帝は、鄭成功の軍隊の砲撃により亡くなったという。これは、『延平王起義実録』にある。
- 雍正帝は、康熙帝を謀殺して皇帝となったという。
- 雍正帝は、康熙帝の遺詔の「傳位十四皇子」を「傳位『于』四皇子」に改竄したという。
- 雍正帝は、頭を呂四娘の形にカットしたという。これは、『清朝野史大観』「卷一·清宮遺聞」、民国の許嘯天の『清宮十三朝演義』にある。
- 乾隆帝は、浙江海寧の漢人の血族であるという。これは、中華民国の人が書いた『満漢外史』にある。
- 同治帝は嫖妓から梅毒をうつされて亡くなったという。
- 慈禧太后と恭親王奕訢は情けを交わし、それにより、奕訢が祺祥の変を起こしたという。
- 慈禧太后は奕訢と情けを交わした後、慈安太后を紹介したという。
- 慈禧太后は、偽の宦官安得海と情けを交わしたが、これが慈安太后に知られると、山東巡撫丁宝楨に命じて、安得海を斬首したという。
- 曽国藩、曽国荃が太平天国の乱を平定し、南京を屠城し、大量の銀両、財物を略奪したという。
- 慈禧が曽国藩、曽国荃が南京を略奪したと知って、馬新貽を両江総督として派遣し、暗中に命じて証拠を集めさせたが、曽国藩は、馬新貽を暗殺したという。
- 李鴻章と洋商が組んで、左宗棠の大商人胡雪巌と関係するに至ったという。
- 光緒帝は慈禧太后に毒殺されたという。
- 宣統帝は同性愛者で、女性と交わることが出来なかった。それで、かれの皇后婉容は、四人の愛人がいたという。
- 孫文は宋教仁を暗殺させ、その罪を袁世凱になすりつけたという。
- 蒋介石は本名を「鄭三発」といい、幼名を「三発子」という。本来は、河南の鄭姓の農民の子であり、鄭紹発という兄がいるという。これは、『金陵春夢』や沈醉の『我所知道的戴笠』にある。
- 張作霖はソ連によって暗殺されたが、ソ連は日本の関東軍の仕業にしたという。
- 華国鋒は毛沢東の私生子であるという。
欧州の例
- イエスには子女があるという。
- フランス革命のギロチンで切られた頭で子供が遊んでいたところからバスケットボールが発明されたという。
- ヒトラーはユダヤ人であるという。
- ヒトラーはブラジルに逃亡し、イスラエルの工作員は見つけられず、その捜査が長期にわたったという。
- ハンガリーのバートリ・エルジェーベトは、少女の鮮血を飲み、沐浴したという。
- ローマ教皇インノケンティウス3世は、三人の少年の血を飲んで病気を治したという。
日本史の例
- 日本の上杉謙信は女性であり、女性の病気で亡くなった。
- 織田信長は生きていた。
- 明智光秀は生きていた。
- 日本の本能寺の変の黒幕は豐臣秀吉である。
- 「○○はユダヤ人だった」「○○はアメリカの陰謀」。
- その他数多くの「実は○○だった」「○○の真実」「誰も知らなかった○○」「常識が変わる○○史」といった煽り文句の書籍。知的に無駄なだけでなく、もはや公害に等しい。
注釈
- ^ 『洛陽伽藍記』には北魏隠士である趙逸が述べていることを次のように記載している:“苻生雖好勇嗜酒,亦仁而不殺。観其治典,未為凶暴。及詳其史,天下之悪皆帰焉。”
- ^ 資治通鑑 (貞観十七年)初,上謂監修國史房玄齢曰:“前世史官所記,皆不令人主見之,何也?”對曰:“史官不虚美,不隠悪,若人主見之必怒,故不敢獻也。”上曰:“朕之爲心,異于前世。帝王欲自觀國史,知前日之悪,爲後來之戒,公可撰次以聞。”諫議大夫朱子奢上言:“陛下聖德在躬,擧無過事,史官所述,義歸盡善。陛下獨覧起居,于事無失,若以此法傳示子孫,窃恐曾、玄之後或非上智,飾非護短,史官必不免刑誅。如此,則莫不希風順旨,全身遠い害,悠悠千載,何所信乎!所以前代不觀,蓋爲此也。”上不從。玄齢乃與給事中許敬宗等刪爲高祖、今上實録;癸巳,書成,上之。上見書六月四日事,語多微隠,謂玄齢曰:“周公誅管、蔡以安周,季友鴆叔牙以存魯,朕之所爲,亦類是耳,史官何諱焉!”即命削去浮詞,直書其事。
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