朱慈煥
朱 慈煥(しゅ じかん、1633年 - 1708年)は、明の崇禎帝の第5子。母は田貴妃。明の残党狩りの追及をかわし、70代まで生き延びることができたが、清朝の康熙47年に捕らえられ、康熙帝によって「謀反を起こした事実はないが、謀反の心を抱かなかったことはないとはいえない(朱某雖無謀反之事,未嘗無謀反之心)」という理不尽な罪を着せられた結果、凌遅刑に処せられた。後年に悼霊王と諡された。
生涯
[編集]捕縛まで
[編集]崇禎6年(1633年)に生まれる。明が滅亡した際は11歳だったが、宮殿を落ち延びて流浪の日々を過ごす。13歳の時に鳳陽という土地に辿りつき、その地の郷紳でかつて明の官吏であったと称する王という老人に匿われ、王姓を名乗った。王の病没後は剃髪し、僧籍に入ることで余生を平和に過ごしていたようである。その後、同じく明の官吏であった余姚の胡という人物の娘を妻として迎えて還俗している。胡氏は裕福な家の娘ということもあり教養に秀で、夫婦2人で家で私塾などを開いていたため、家は常に人の出入りが盛んだったという。
康熙44年(1705年)にささいな事件から告発があり、身の危険を感じた朱慈煥は逃亡生活に入るが、3年後の康熙47年(1708年)に山東で捕縛され、審問を受けるために北京に移送された。この時、朱慈煥は既に75歳を過ぎていた。
三大恩
[編集]前審として浙江で審問を受けた際、清の取調官が「朝廷は汝が恨みを抱くような処遇はしていないのに、なぜ謀反を企てたのか?」 という問いに対して、「私は数十年来、姓名を変え平和に暮らすことだけを望んでいました。清からは三個の大恩を受けており、私はその恩を忘れた日はありません。その私がなぜ謀反をしなければならないのでしょうか」と答えたという。取調官が三個の恩とは何かについて尋ねると、「一つは流賊(李自成)を征伐し自分の仇を討ったこと。二に明の血縁を皆殺しにしなかったこと。 三に代々の陵墓を守り、朱氏一門の祭祀を今も継続させていること」を挙げ、さらに「私は既に75歳の高齢で、血気は衰え、髪も髭も白くなり果て、三藩の乱という機会があった時も謀反など企てなかったのに、どうして今頃になって清の安寧を破壊する真似ができましょうか?」と供述したという。
未嘗無謀反之心
[編集]康熙帝は「謀反を起こした事実はないが、謀反の心を抱かなかったことがないとはいえず、これだけでも死罪に値する。さらに、明の皇子を騙り世を騒がせた罪は凌遅に値する」と直々の命令を下し、それに基づき朱慈煥は凌遅刑に処され、その子と孫を含む一族はことごとく処刑された(異説として家族は処刑前に自殺していたともされる)。これにより、崇禎帝の末裔は断絶した。
家族
[編集]妻妾
[編集]- 正妻:胡氏
- 妾1人
兄弟
[編集]子女
[編集]- 朱和(兟の下に土)(朱曾裕の父)、朱和峚、朱和𡈼、朱和在、朱和堃
- 3人の女子
孫
[編集]- 朱曾裕((朱和(兟の下に土)の息子)
参考文献
[編集]- 『南明史』